北条地区(2)

ここにまた住まばやと思ふ春の暮(高浜)虚子

 昭和15年、父の五〇年忌のために松山に帰省、旧居跡を訪ねたときの感慨を詠んだ句。実際に、知人に適当な家を探してくれるように依頼していたとも伝えられている。
 この句は、西ノ下大師堂にある「高浜虚子胸像」の基壇にはめ込まれた石板に刻まれている。句の後に「旧居の跡を訪ねて 七十六歳虚子」とある。胸像は、昭和62年3月に建立。今治の石造彫刻家馬越庄八の作。
 なお、西ノ下大師堂の北にある近くの空き地に「虚子先生生家池内邸址」の碑が建てられている。
 虚子は、明治7年、松山市長町新町(現湊町四丁目)に生まれるが、生後間もなく、父庄四郎政忠が廃藩に伴い帰農、風早郡別府村西ノ下に一家で移住し、虚子は七歳までここで過ごした。
 明治14年、父が農業をやめて一家が再び松山に戻り、榎町五番地(現三番町四丁目)に住んだが、翌年に玉川町47番地(現一番町一丁目)に転居、ここが虚子生い立ちの家となった。(「高浜虚子住居跡」参照。)

所在:松山市柳原(西ノ下大師堂)

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