北条地区(11)
遊高縄
越家百世舊金湯 今日空餘選佛場
姦骨忠魂同一夢 無人知道注連梁大原 観山
碑面にはないが、『大原観山遺稿集』には、「連梁は人名、其の君高箕を諫めて死す。高箕或いは高縄と称す。山の名は蓋し此れに由る。」と小さい字で注釈がある。
「越家」とは、古代伊予の豪族「越智氏」で、後に河野氏が出て高縄山付近を領した。「河野一族が何代にもわたって治めた、堅固だった城の跡。今は空しく寺が残っているだけ。よこしまな心の輩、忠実な魂を持った者、いずれも同じ夢を見ただろうに。かつて主君を諫め、死んだ注連梁という人物をもう知る人はいない。」といった内容であろう。
寺は河野氏の主要防御拠点であり、戦勝祈願の役割を持っていた。高縄城と運命を共にし、天正13年(一五八五)の、河野氏滅亡に際して炎上。現在の寺は明和年間(一七六四―一七七二)に再建され、江戸末期に改修されたという。
碑の裏には、大原観山の紹介、ここ高縄に春秋二回訪れたこと、平成16年12月の建立などのいきさつが刻まれている。
所在:松山市立岩米之野(高縄寺)
北条地区(11)番