城北地区(12)

 千島艦覆没

ものゝふの河豚ふぐにくハるゝ悲しさよ(正岡)子規

 「寒山落木」明治25年(一八九二)「終りの冬 生物」の部の自筆拡大。「河豚」は「冬」の季。
 「千島艦」はフランスで建造した750㌧の水雷砲艦。日本へ回航中、明治25年11月30日未明睦月島と興居島との沖合で、英国商船ラベンナ号(3000㌧)と衝突して沈没、貴島大尉以下74名殉職、村民は、その救助に献身的努力をした。左側に、千島艦遭難の碑(東郷元帥書)がある。明治25年12月1日、子規は日本新聞社に初出社。月給一五円。前日の、千島艦沈没の事件を、「海の藻屑」と題して、翌12月2日の「日本」に次の如く掲載した。「――軍艦の費多しとも金に数ふべし、数十人の貴重なる生命如何。数十人の生命猶忍ぶべし。彼等が其屍と共に魚腹に葬り去りし愛国心の価問はまほし」としてこの句がある。
 正岡子規の日本新聞社員としての初仕事がこれであった。

所在:松山市堀江町(浄福寺)

城北地区(12)番