城北地区(14)

感無量まだ生きて居て子規祭る九十歳 (柳原)極堂

 子規と極堂は、ともに慶応3年生まれ、松山中学校で盛んに政談演説をやり合った。それ以来の二人の仲であり、明治22年(一八八九)の頃、極堂は子規から「文友」とまで評された。やがては、明治30年、松山で極堂により「ほとゝぎす」創刊となるが、明治35年、子規に先き立たれた極堂は、全余生を子規顕彰の一事に捧げた。
 昭和26年、子規五〇年祭の年、八五歳になった極堂は、『子規の話』を出版して、ひたむきな子規追慕の情をかたむけ、また、五〇年祭の式典では、虚子と共に挨拶をした。
 この『子規の話』の中に、「その郷里なる松山において五〇年祭の執行されるに当たり、この小著を子規霊前に捧ぐ」としてこの句があり、真情があふれている。この年、極堂らの尽力で中の川子規邸跡に子規の歌碑が建ち、正岡家の最初の菩提寺だった法龍寺の一部に子規庵を建てその庭に子規句碑を建てた。碑文中に「九十歳」とあるのは昭和31年のことで翁逝去の前年であるが、生前自句碑の建立を許さず、翁没後一五年目に建てられたものである。

所在:松山市山田町(妙清寺)

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