城南地区(7)

お遍路の誰もが持てる不仕合ふしあわせ(森)白象

 本名 寛紹、明治32年(一八九九)5月31日、温泉郡重信町(現東温市)生まれ。元高野山真言宗管長・高野山真言宗総本山金剛峯寺第406世座主。平成6年12月26日、九五歳で遷化。
 昭和2年、白象が高野山大学在学中に、改造社の『日本文学全集』完成を記念して、日本文学夏期大学が高野山で開催された。そのとき講師として招かれていたのが高浜虚子で、それが縁となって俳句に親しむことになったという。以降、「ホトトギス」などの俳誌へ投句をはじめ、昭和5年からは欠かすことなく投句を続けた。
 この句は、白象の三男が亡くなり、遺骨を携え四国巡礼に出たとき、遍路の心にはそれぞれの思いと影があることを思い詠んだもの。
 なお、自著『母を語る』の中で、故郷について次のように述べている。
  「そうです重信町は四国八十八ヵ所の巡礼コースからいうと四十六番浄瑠璃寺       からすぐ近く、四十七番八坂寺から松山市の四十八番西林寺へ行く際に重信川の流れを渡ります。さきの八坂寺の近くには四国遍路の物語では必ず出てくる衛門三郎の八人の子を埋葬した八塚がありますね。衛門三郎物語と松山の石手寺、それに阿波の焼山寺のことなどでわかるように私の郷里も大師信仰の盛んな所です。」

所在:松山市浄瑠璃町(八坂寺)

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