城南地区(14)

真宗しんしゅう伽藍がらんいかめし稲の花(正岡)子規

 明治28年(一八九五)10月2日、天気もおさまり、気分もよくなった子規は、一人で吟行に出た。愚陀佛庵を出て、親戚の藤野家、大原家を訪ね、中の川を渡って蓮福寺東角の八軒屋を過ぎ、横河原線のレール沿いに石手川堤に上り、相生町(現柳井町二丁目10)の浦屋雲林邸の前を通り、旧火葬場、旧監獄所の裏に出て、薬師寺西から又八軒屋に帰る、という道順であった。「真宗の伽藍」というのは中の川の「蓮福寺」のことであるが、この句碑のある相向寺は、同じ本願寺派の真宗であるから、それに因んだもので、句碑の文字は句集「寒山落木」の自筆拡大。
 この相向寺の境内に、松山市五代目市長加藤恒忠(拓川)の墓がある。拓川は子規の母の弟で、子規の上京を扶け、子規が最も頼りにした人である。加藤家の檀寺は蓮福寺であるが、拓川の希望でこの寺に葬られた。拓川は喉頭癌のため絶食すること三六日間。その死の直前に墓碑銘の「拓川居士骨」の五文字を、折から見舞に来た岩崎一高(六代目松山市長)に書かせた。誠実無私、名利に恬淡、自分の信念に忠実で人情味あふれる国際人であった。大正12年(一九二三)3月26日没。六四歳。

所在:松山市拓川町(相向寺)

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