城西地区(2)

薏苡じゅずだまや昔通ひし叔父が家(正岡)子規

 明治28年(一八九五)10月7日、雄郡神社を過ぎた子規は、
 「 かねて叔父君のいまそかりし時余戸に住みたまひしかば我をさなき頃は常に行きかひし道なり
 御旅所の松、鬼子母神、保免の宮、土井田の社など皆昔のおもかげをかへず
 そゞろなつかしくて
   鳩麦や昔通ひし叔父が家
 をさなき時の戯れも思ひ出されたり」
と「散策集」に記している。
 句の上五が「鳩麦や」となっているのを、「寒山落木」で「薏苡」と改めた。碑の文字はそれによったものだが、「薏苡」が読みにくいので、碑陰に「薏苡はじゅずだま」と注記してある。
 余戸に住んでいた叔父は、子規の父常尚の長兄佐伯政房で、松山藩の祐筆を務めた。子規は六歳の頃からお家流の指導を受けたようである。父の兄であるから正確には叔父ではなく「伯父」である。
 鬼子母神は、加藤嘉明の松山城築城とともに松前から遷座したもので、350年祭にお堂が新築され、句碑も建てられた。

所在:松山市土居田町(鬼子母神堂)

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