城西地区(4)

出合渡

若鮎の二手になりて上りけり(正岡)子規

 基壇後部にはめ込まれた副碑に、
     由 来
  此處出合は重信川と石手川の合流点で明治四十年旧々出合橋(木橋)が架かるまでは渡舟で往来した。此の碑は正岡子規が伊予郡永田村の武市幡松を訪ねるに際し渡舟の中で詠んだ句である。(以下略)
とある。武市幡松(庫太)は、子規が「良友」と呼び、親交の深かった四歳年長の友人で、橋の向こうの永田村(現伊予郡松前町)に住んでおり、子規はよく泊まりがけで訪ねていたが、当時はまだ橋がなかった。
 この句は、明治25年6月17日、東京から松山の河東碧梧桐宛ての手紙に、「松山名処十二ケ月」のうち三月の分として、下五が「流れけり」として見え、後に「寒山落木」でこの碑のように改めた。
 句碑は、先の「手引松」の句碑とともに、県下の子規句碑第一号となる。内藤鳴雪の句碑が大正7年、村上霽月の句碑が大正11年、高浜虚子の句碑が昭和3年に県内に建ったことを思うと、子規の句碑が、以上の三人に遅れ、昭和8年にはじめて建てられたことは意外な感がする。

所在:松山市出合(出合橋北)

城西地区(4)番