城西地区(5)
樗さけり古郷波郷の邑かすむ(水原)秋桜子
副碑に「由来」として
馬酔木派俳句の主宰水原秋桜子先生が昭和二十七年五月御来松の砌、松山城から馬酔木派同人五十崎古郷及び石田波郷の生地を展望されて詠まれた俳句である。 昭和戊辰六十三年五月建之
とある。この句碑は、秋桜子にとって県下で唯一の碑である。
水原秋桜子は、本名は豊、別号を「喜雨亭」という。学生時代、高浜虚子の文学に刺激を受け、研鑽を重ね「ホトトギス」課題句の選者となるが、「主観写生」を提唱し虚子と対立、決別していった。
五十崎古郷は、伊予郡余土村(現松山市余戸中)に生まれた。本名は修。松山高校を結核で中退、療養のうちに昭和3年頃から水原秋桜子に師事し、本格的に句作に没頭した。秋桜子が「ホトトギス」を離脱、「馬酔木」を発足させたとき、門弟石田波郷とともに「馬酔木」に移り、昭和8年、第一期の同人となり、「松山馬酔木会」を結成、翌9年、「渦潮」を創刊、地方俳壇の振興に努めた。
石田波郷は、垣生村西垣生(現松山市西垣生町)に生まれた。古郷に師事、古郷を通じて秋桜子門下となり、昭和7年上京、「馬酔木」の編集にたずさわり秋桜子門の重要メンバーとなる。「松山ゆかりの人びと」参照。
所在:松山市出合(出合橋北)
城西地区(5)番