城西地区(6)

村上霽月むらかみせいげつ邸跡

 霽月こと村上半太郎(明治2年~昭和21年)の邸宅跡である。当時の建物は長屋門、母屋、土蔵から成り、霽月はこの邸を「光風居」と名づけた。百年以上の建物といわれ、素封家らしい構えであった。
 明治28年(一八九五)10月7日、霽月邸を訪ねた子規は、「散策集」に
 「宮に隣り松林を負ひて倉戸前いかめしき住居也
  粟の穂に雞鶏飼ふや一構
  鵙木に啼けば雀和するや蔵の上
  萩あれて百舌啼く松の梢かな
 庭前の築山に上れば遙かに海を望むべし」
と記している。ここで霽月と「歌俳詣の話に余念なく」時を過ごし、食後、今出の浜に出て、村を一周して帰り、句稿を認めて夕方辞去した。
 内藤鳴雪も、明治27年11月、ここを訪ねて終日俳談をし、明治29年3月1日には、夏目漱石と高浜虚子が訪ねて「神仙体」と称する俳句を作り、雑誌「めさまし草」巻三に掲載した。
 霽月邸の斜め向いにある垣生小学校校庭には石田波郷の句碑があり、塀の外から見ることができる。また霽月邸の裏手奥にある「常光寺」には、子規の3基の句碑がある。「松山ゆかりの人びと」参照

所在:松山市西垣生町

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