城西地区(12)

西山に桜一木ひときのあるじ哉(正岡)子規

 「寒山落木」(明治25年)「春・植物の部」に、「山内神社」と題してこの句がみえる。碑の文字は、「寒山落木」から子規の文字を集めて構成されている。昭和44年9月25日建立。
 享保17年(一七三二)の凶作で、餓死三、四八九人、牛馬三、〇九七頭などと、松山藩目付の山内与右衛門が正直に報告したのが、結果的に藩主を苦しめることになり、その責めを負わされて翌年9月閉門、12月5日、味酒村長久寺で切腹を命ぜられた。(農民騒動の責任を問われたとも言い、また、「松山騒動伊予八百八狸物語」として、講談、芝居から映画にまで脚色された「藩主久松定長の跡継ぎ騒動」の責任をとらされ切腹したという説もある。)
 この山内与右衛門久元を祀ったのが「山内神社」である。境内には、石井義郷と並んで幕末の代表的歌人であった西村清臣の
  かげ移る朝日もはなのにほひにて ひかりまばゆき山桜かな  (西村)清臣
という歌碑がある。「松山ゆかりの人びと」参照

所在:松山市南江戸五丁目(山内神社)

城西地区(12)番