城東地区(2)

閑古鳥かんこどり竹のお茶屋に人もなし(正岡)子規 能成書

 明治28年(一八九五)正岡子規帰郷の時の句。「寒山落木」明治28年夏の部などには、「松山東野」と前書きしてこの句があり、すべて「お茶屋に」が「お茶屋の」となっている。安倍能成の書。昭和33年5月建立。
 徳川家康の弟定勝の子松平定行は、松山藩主として寛永12年(一六三五)お国入りをし、二四年後の明暦4年(一六五八)、跡継ぎの定頼に藩政を譲ってこの東野に別荘を造り、風雅な生活を送った。琵琶湖に模して池を掘り、ほとりに清水寺をかたどった観音堂があり、これは改修されて存している。庭は、弟定政の吟松庵(西南方)にまで及び、その間、東海道五十三次の宿場を模した並木道が造られていた。丘陵上の茶屋は裏千家千宗庵の作で、総てが竹づくりであったことから、「竹のお茶屋」の称がある。今も、その礎石だけが残っていて、昔が偲ばれる。

所在:松山市東野四丁目(東野お茶屋跡)

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