城東地区(4)
倉のひまより見ゆ春の山夕月が(野村)朱(燐洞)
句碑は、多聞院の山門を入ったところの左にあり、「層雲」大正2年4月号井泉水選「春山」の一句。朱燐洞六二回忌の祥月命日の昭和54年(一九七九)10月31日建立。朱燐洞自筆。
ここ多聞院は真言宗豊山派のお寺で、近くの阿扶志墓地に野村朱燐洞の墓がある。墓は、昭和5年8月、一三回忌に次姉ノブが先祖代々の墓として建てたもの。
終の住処を求めて松山を訪れた種田山頭火がはじめに行なったのが、この朱燐洞の墓参りだった。一二歳年下の才能溢れる朱燐洞に思うところがあったのであろう、到着したその足で墓があると信じていた石手地蔵院に向かっている。
ただ、案内した高橋一洵とともに墓を探すも、結局見つけることはできなかった。その山頭火を追いかけ、地蔵院に遅れてやって来た藤岡政一は、山頭火のあまりの落胆ぶりを見て、朱燐洞の墓探しをすることを決意する。そして数日後、阿扶志墓地に墓があることを突き止めるのである。
昭和14年10月5日の夜9時過ぎ、雨の中を山頭火は二人の案内でやっとこの墓地を尋ね当て、宿願を果たした。
所在:松山市小坂二丁目(多聞院)
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