- HOME > 松山ゆかりの人びと
五百木 小平
[明治28(一八九五)・5・21~昭和45(一九七〇)・8・21 75歳]
松山生まれ。松山生まれ。本名正教。28歳で妻と大阪へ出て炭屋「塩原屋」を開業し、のち大阪の瓦斯会社の職工となって働いた。黒住教の熱心な信者であり、また歌人吉植庄亮主宰の「橄欖」(大正11年創刊)に加わる。彼の作品が昭和7年7月の「橄欖」の11番目に出ていることから、大変重く扱われていたことがわかる。
その頃の作品には、
松の花晴れて風なき日さかりを息吹き静かに粒吹きて居り
のような作風で、写生歌としてすぐれている。
一方、瓦斯会社職工として
口過ぎの職工として貧しくも困れる人の瓦斯切り廻る(昭11)
老いぬ間に仕事替へむと思ひつつ職工として五十路に近し(昭15)
また、
仕事する吾汚きを見すまじとかくれて居りき吾娘の過るに
身にそはぬよき衣を着て吾は来ぬ娘の出たる展覧会に
には、父親としての素直な姿がうかがわれる。
「素直」と言えば、小平の歌に、
ひもじきをこらへて家へ帰りけり飯の熱さにうろたへて食ふ
という作品がある。また、県内歌誌「にぎたづ」にも作品を多く遺した。
子どもを育て・食べる・寝る・住む・働く、全てが小平には喜びであった。その正直な記録が彼の歌となった。還暦記念の歌集『ひさご』(昭和30年)と喜寿記念歌集『埋れ火』(昭和45年)がある。
「私の歌は第二の古事記であらねばならぬ」と思うとも言った小平は、一粒種の娘に、古事記ゆかりの「美須麻流」と名づけた。その美須麻流という一人娘が『歌人・五百木小平』なる上下二巻、841ページに及ぶ大著を、平成4年5月刊行した。
五百木 飄亭
[明治3(一八七一)・12・14~昭和12(一九三七)・6・14 66歳]
本名良三。松山生まれ。犬骨坊・白雲とも号す。松山医学校に学び、明治21年大阪で医術開業試験に合格。同22年、東京に出て、10月7日初めて子規を訪問、交友を深めて俳句・小説に没頭する。明治27年日清戦争に看護長として従軍、「従軍日記」を新聞「日本」に寄せ、好評を得た。翌年帰国して日本新聞社に入社、明治34年同社編集長となる。近衛篤麿の知遇を得、明治39年「城南荘」を組織し、昭和4年に雑誌「日本及日本人」を主宰、政府鞭撻に努めた。昭和12年春以来病床にあり、この年6月1日近衛内閣成り、首相が同11日、病床の飄亭を見舞った。この時の句に
五月晴の不二の如くにあらせられ 飄亭
また、昭和11年9月19日の子規35回忌に
世にあれば古稀の子規なり月の秋 飄亭
がある。
絶筆の句に
客断えて風鈴の音一しきり
がある。
飄亭没後一か月未満で日中戦争、更に四年余で太平洋戦争となり、飄亭の一子、龍雄は徴せられて南方に戦没した。後嗣はなかった。『飄亭句日記』(昭和33年)、『夜長の欠び』(講談社『子規全集』・別巻二・昭和50年)がある。
五十崎 古郷
[明治29(一八九六)・11・20~昭和10 (一九三五)・9・5 38歳]
愛媛県温泉郡余土村余戸88番地に、父春次郎、母ユキの四男として生まれる。本名修。松山中学校在学中から文学志望。大正5年中学卒業後、小学校代用教員となり、のち台湾国語学校に学び、大正10年、旧制松山高等学校に入学。大正11年夏、面河で水泳中、巌に背中を打ちつけて脊椎カリエスとなり、ついで胸を患らって松山の日本赤十字病院に入院した。(今川内科医長、後年妻となる看護師小倉キシヱを識る)。そして、大正12年松山高等学校を中途退学した。その後、京都、新潟などで仏門に修業したが体力の限界を感じ、大正14年、郷里に帰る。翌年病気が再発し、病臥の身となった。
昭和2年頃から俳句をはじめ、一時、阿波野青畝の指導を受けたこともあったが、主治医今川七郎氏の紹介で水原秋桜子に師事することになる。今川氏は東大医学部では秋桜子より先輩なので、あまりよく知らず、高野素十ならば紹介してもよいと言ったが、本人の強い希望で、今川氏は秋桜子に紹介の労をとったのである。
昭和3年から本格的に俳句に取り組み、「古郷」と号した。この年2月、小倉キシヱと結婚、6月、二間の家を新築し、「南山房」と名づけ、また、「志満園林」とも称した。この間、病床にあっても句作に励み、昭和8年4月、馬酔木第一期同人に推され、この年、松山馬酔木会を結成して、会報「ふるさと」、翌9年には俳誌「渦潮」を発刊した。
昭和5年、古郷を師と慕う当時18歳の石田哲大を南山房で指導し、「波郷」という号を与えた。
昭和7年、古郷が秋桜子に「便箋二十九枚に波郷の事を涙を流しもって」書いた紹介状をもって、波郷は上京し、秋桜子の門をたたくことになる。このようにして、古郷は、後年の波郷の素地を育てあげた。
昭和8年には日本基督教城東教会で受洗、昭和10 年、広島県呉市の俳友塚原夜潮に「渦潮」の後事を托した。墓は旧余土村出合の村営墓地にあり、墓碑銘は「古郷五十崎修」とのみ。
石田波郷編『五十崎古郷句集』(昭和12年・沙羅書店)、五十崎朗編句文集『芙蓉の朝』(昭和49年・青葉図書)がある。
石井 義郷
[文化9(一八一二)・5・17~安政6(一八五九)・7・16 47歳]
松山藩士、通称喜太郎。萩の舎やと号す。
三津に住んでいた頃、興居島の堀内家より「源氏物語」の注釈書『湖月抄』を借覧して熟読し、ほとんど暗誦したという。槍術を改撰流有馬平次兵衛に習ったが、三津から城下まで通い、一日も休まなかった。朴実温厚な人柄であった。
著書に『石井義郷歌集』『石井家集』『萩の露』『芳宜の屋集』『秋萩』など、多くの和歌や和文が遺されている。門人に星野久樹・藤田久徴らがあり、幕末の松山歌壇の指導者であった。
石田 波郷
[大正2(一九一三)・3・18~昭和44(一九六九)・11・21 56歳]
愛媛県温泉郡垣生村大字西垣生980番地に、父惣五郎、母ユウの次男として生まれる。本名哲大。大正14年、松山中学校入学、四年生の時、同級生中富正三(俳優・大友柳太朗)のすすめで句作をはじめ、「二良」「山眠」と号した。ちなみに、大友は「如煙」「悠々」と号した。昭和4年、同村の俳人中矢秋葉を識り、翌年、松山中学校卒業後、秋葉の紹介で余土村の五十崎古郷(秋桜子門)を訪ねて入門、古郷より「波郷」の号を与えられる。
昭和7年12月、「馬酔木」新樹集巻頭に五句入選し、これが彼の人生の進路を決定づけた。古郷は、便箋29枚に、「涙を流しもって」、秋桜子に宛て、波郷紹介の文を書いた。その手紙と路銀50円を持って、木綿絣の着物にセルの袴、その上にマントを羽織って2月20日上京したが、秋桜子にとってはいきなりの訪問であったようである。
昭和9年5月より「馬酔木」編集に参加、久保田万太郎を慕って、この年入学した明治大学文芸科を昭和11年3月に中退して句作に専念し、昭和12年9月、俳誌「鶴」を創刊して主宰者となる。
昭和18年9月23日、召集令状が来て佐倉連隊に入隊、10月はじめ北支に派遣、翌年3月左湿性胸膜炎を病み、昭和20年1月内地送還、それより闘病の生活が長く続き、入院回数7回、胸部手術をすること6回、入院生活通算五年一か月に達した。この間、懸命の句作を続け、療養生活の中に生のモラルを追求した『惜命』等の一連の作品は絶唱である。そのような情況のもと、昭和25年から6年半、「馬酔木」編集も担当した。
昭和30年1月、『定本石田波郷全句集』の業績で第6回読売文学賞を、昭和44年4月には、句集『酒中花』により芸術選奨文部大臣賞を受け、病床に栄光があった。彼にとっては、俳句は「生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打座即刻のうた」だったのである。久保田万太郎も、「彼の生活に根ざした叙情の得やすからざるみずみずしさ、その、ひとさらな人生詠嘆の深さ」を讃えている。
彼の妻あき子も俳句をよくし、彼が命名した句集『見舞籠』(昭和44年)があるが、昭和60年10月21日50歳で波郷のあとを追うように短い一生を終えた。墓は東京都調布市深大寺にある。『石田波郷全集』全10巻(昭和47年・角川書店)などがある。
一遍 上人
[延応1(一二三九)~正応2(一二八九)・8・23 50歳]
鎌倉時代の僧。時宗の開祖。道後の宝厳寺に生まれる。幼名松寿丸、出家して随縁、のち智真、建治元年(一二七五)一遍と改めた。
祖父は河野通信で、源平合戦で源氏に味方して大功をたて、河野氏発展の基礎を築く。異母弟・聖戒は一遍より23歳ばかり年下で、国宝『一遍聖絵』を編述した。
はじめ太宰府で修行、父の死後一時伊予に帰って在俗の生活を送ったが、善光寺・大阪四天王寺・高野山と回り、建治元年紀州熊野権現で悟りを開き、成道したと言われる。それより正応2年(一二八九)の没年まで、人々に「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と記した紙札(幅2センチ縦7.6センチ)を配る「賦算」の旅を続け、その念仏勧進の旅は九州大隈より、北は陸奥国江刺にまで及び、各地で踊念仏を行って熱狂的な支持を受けた。
その一遍ゆかりの地には、伊予では久万の岩屋寺、繁多寺、窪寺(松山市)、三島神社(大山祗神社)があり、讃岐・阿波・淡路などにもゆかりの地があり、往生をとげた神戸の地に真光寺が建立された。道後の宝厳寺には、室町時代に作られた一遍上人の木彫の立像(※国指定重要文化財)がある。(※焼失のため、平成26年8月21日に指定解除)
一遍賦算の旅は16年に及び、正応2年8月21日播磨の淡河殿という女房に一遍最後の賦算を授け、その数は250万人余に及んだともいう。これは、鎌倉時代の推定人口四九九万四,八二八人の約半数でまことに驚くべき数である。正岡子規が評したように、まことに一遍上人は古往今来の傑僧であった。
今井 つる女
[明治30(一八九七)・6・16 ~平成4(一九九二)・8・19 95歳]
本名今井鶴。松山生まれ。つる女の生家は「池内」姓。つる女の父は、四人兄弟政忠・信嘉・政夫・清のうち政夫である。つる女は4歳で父を失い、長兄政忠の養女となる。大正8年の頃、信嘉の長男たけし(洸)より俳句の手ほどきを受けた。旧波止浜町長今井五郎と結婚し、今井姓となる。虚子には姪にあたることから、句集に『姪の宿』がある。昭和15年俳誌「ホトトギス」・「玉藻」同人。東京在住。昭和28年から愛媛新聞「婦人俳壇」選者となり、後、長女千鶴子に選を引き継いだ。昭和59年、米寿を記念し、愛媛ホトトギス会と愛媛新聞社が、萬翠荘の裏手に句碑を建立した。この碑の立つ萬翠荘の辺りは、彼女が少女時代を過したところで、彼女の原風景と言えるところ。除幕式の挨拶で「この辺りで、よく一人遊びをしました。故郷と言えば松山。松山と言えばお城山。お城山と言えばこの場所を思います。」と、彼女は句碑の立つ辺りを懐しみ声を詰まらせた。
宇都宮 丹靖
[文政5(一八二二)~明治42(一九〇九)・8・24 87歳]
喜多郡滝川村(現大洲市長浜町)生まれ。幼名柳三郎。20歳で出家、京都で仏門に入り、帰って長浜町の龍泉寺を継いだが、安政4年、36歳で還俗、松山に転住した。易業の傍ら俳句に親しみ、旧派俳人内海淡節の門下となる。
子規が、明治26年10月31日豊島天外の紹介により、巻紙を使って鄭重な書簡を送り、自作10句の添削を求めたことから二人の文通は始まった。
子規が愚陀佛庵で漱石と同居した時期に、丹靖の家がその北隣であったことから、二人は初めて顔を合わせた。この時丹靖74歳、子規の指導を受けて二人で連句をつくった。
明治10年代、当地の俳諧は大原其戎と奥平鶯居の二大宗匠の指導下にあったが、其戎明治22年没、鶯居23年没、その後は、この丹靖と黒田青菱の二人が松山俳壇の中心人物であった。丹靖は、他に亀石・夢大・丹騎鶴とも号した。
子規が明治28年10月8日丹靖(夢大)に送った封書の托便の一部を記す。
夢大宗匠の隣に假の住居を占めて
壁隣芭蕉に風のわたりけり (子規)
まだ半にはならぬ月影 (夢大) 以下略
内海 淡節
[文化7(一八一〇)~明治7(一八七四)・7・29 64歳]
伊予松山藩士内海多次郎(三津御舟手ともいう)の子。本名愛之丞、相応軒とも号した。12 歳で母と死別、その人となりは謹厚醇朴であった。勤王の志厚く、職を辞して京都に到り、東洞院四条に籠居し、時の到るのを待っていたころ、旧藩主松平隠岐守が、勤王佐幕論のうちにあって去就に迷うことがあり、彼は、憂国報国の念やみがたく、ひそかに松山に帰り、建白しようとして果さず、憂愁悶々の情おくところなく、世を憤り
雪かげや扇の箔の照くもり
の一句をものした。
これよりさき、京都で俳諧を桜井梅室に学び、梅室の養嗣子となり、二条家に仕えたが、安政3年(一八五六)、二条殿より宗匠に上げられ、文久2年(一八六二)、昇進して花之本脇宗匠となる。天保14年(一八四三)芭蕉150回忌に剃髪し、剃髪記念句集『犬居士』がある。
梅室が70歳余で一子辰丸をもうけて嘉永5年83歳で死去したので、彼が辰丸を育て、辰丸(村岡多門)を内務省大書記官とするまでの世話をしたのち、多門を桜井家に復帰させ、淡節は明治5年(一八七二)松山に帰り、二番町・出渕町・北京町などに移り住んで、黒田青菱・宇都宮丹靖ら地方の俳人を指導し、俳句の興隆に力を尽くした。2歳年下の三津の大原其戎とは同じ梅室門で親交があり、其戎の芭蕉塚「あら株塚」建碑記念俳諧集『あら株集』の序文を書いている。
明治初年、旧藩主松平公は淡節の忠節を知り、旧臣石原量之助、青野次左衛門を遣わして、紋服一領・目録一封を下賜したという。
晩年、松山に住むことわずか3年、広くは知られなかったが、精錬温雅な旧派の俳人であった。
後妻・君子との間に生まれた米子(香畦女史)は、入婿内海良大(太田姓)の妻となって、後を嗣ぎ、次の敏子(秋蘭女史)は儒者岡田東洲の妻となった。墓碑は柳井町石手川堤にある。
浦屋 雲林
[天保11(一八四〇)~明治31(一八九八)・10・15 58歳]
父浦屋寛親(松山藩士)、母田鶴の長男として松山市湊町四丁目に生まれる。本名寛制、通称登蔵。明教館で日下伯巖・高橋復斎らに学び、漢詩をよくし、書に長じた。
藩に仕えて大小姓から祐筆に進んだが、維新後は藤原村(現松山市柳井町二丁目10)に私塾「桃源黌」をひらいて子弟の教育に当たり、少年時代の子規は、鳴雪らとともにここに学んだ。
「桃源黌」は、午前と午後にわけて塾生が勉学し、多い時は40~50人の塾生が出入りしていたという。中でも内藤素行(鳴雪、南塘)が筆頭世話役で、子規、森知之らが同格であった。他に、塾生の中に、近藤元晋、竹村鍛(黄塔)、河東銓(可全)、高浜清(虚子)、天岸一順、水野広徳、桜井忠温、安倍能成らがいた。
雲林の居宅は藤原村6番戸(現柳井町二丁目)にあり、約700坪の敷地には約210坪の池があり、清水がこんこんと湧きあふれて、塾生はここで泳ぎを楽しんだが、つめたくて10分間も入っておれなかったという。池の周りには、松、サルスベリ、柳の老木が茂って、その影を水に映しており、部屋の中には、藤野海南(正啓)の「柳影水光」の扁額がかかっていたことから、この居宅を「柳影水光舎」とも称した。
子規の句に
庭清水藤原村の七番戸
がある。(実際は六番戸。)
詩作数千首あり、それをまとめた『雲林遺稿』(昭和29年刊)がある。
衣山駅南の宝塔寺に墓があり、八束南渓の撰ならびに書で、つぎの銘が墓石に刻まれている。
棹仙舟去 何有春秋
桃源洞裡 白雲悠々
「仙舟に棹さして去る 何ぞ春秋有らん
桃源洞裡 白雲悠々」
なおこの敷地は、もと、法龍寺住職の別宅であり、雲林亡き後は、料亭「亀の井」となり、戦前の松山でその名を知られていたが、今は、昔の面影を偲ぶすべもない。墓碑は朝日ヶ丘の宝塔寺にある。
大島 梅屋
[明治2(一八六九)・1・27~昭和6(一九三一)・7・22 62歳]
松山市二番町10番戸生まれ。松山市玉川町73番地に没。本名嘉泰。松山高等小学校教員。同校教員主体の、明治27年に発足した松山松風会にはじめより参加、しかも、彼の家が子規・漱石のいた愚陀佛庵の南隣りであったこともあり、いわゆる愚陀佛庵日参組の一人として活躍した。子規の書き残した「散策集」(『子規全集』第13巻所収)によれば、明治28年(一八九五)9月21日(土)午後、「稍曇りたる空の雨にもならで愛松・碌堂(極堂のこと)・梅屋三子に促されて病院下(現東雲学園の下)を通りぬけ御幸寺山の麓にて引返し来る」とある子規その日の吟行に同行した。
これとは別に、同年10月上旬の日付のある「松風会稿抜萃」(松山市民双書編集委員会発行『子規・漱石と松風会』所収・昭和44年)によれば、その日の子規選句の最高点を示す「圧巻」と、子規の書で朱書きしてあり、
門前に野菊さきけり長健寺 梅屋
とあるのは、もしかしたら、その数日前に、子規の「散策」に梅屋が同行した時の句ではあるまいかと思われる。
また、このあと、10月12日二番町「花はな廼の舎や」という料亭での子規送別会で、子規が松山松風会同人17人の雅号を読み込んだ俳句の中に、「梅屋」の分として
梅紅葉天満の屋根に鴉鳴(く)
がある。
大野 静
[明治25(一八九二)・8・18~昭和59(一九八四)・11・18 92歳]
教育者・歌人、上浮穴郡父二峰村(現久万高原町)生まれ。愛媛師範学校卒。広島高師国漢科中退。松山高等女学校教諭、愛媛女子師範学校附属小学校教頭、松山城北高等女学校校長、戦後は、新田高校教頭、大和女子短大教授を歴任した。
一方、歌人として、昭和4年より、短歌誌「あけび」(歌人・花田比露思主宰)に属し、同6年、松山で薬局を経営していた岩波藤尾らと、歌誌「にぎたづ」を刊行。それが四号で途絶えていたのを、歯科医伊与木南海と協力して刊行。平成6年1月で五百号に達した「潮音」同人。愛媛歌人クラブ会長。歌集に『證』などがある。
俳人大野岬歩(愛大名誉教授大野盛直[明治39年(一九〇六)~平成12年(二〇〇〇)])は、大野静の実弟である。
大原 観山
[文政1(一八一八)~明治8(一八七五)・4・18 57歳]
松山藩士加藤重孝の三男、本名有恒、通称武右衛門。重孝の長女の嫁ぎ先の大原家を嗣ぐ。観山と妻重(歌原氏)の間に生まれた長女八重が正岡常尚に嫁し、常規(子規)と妹の律が生まれる。観山は子規の外祖父である。
観山に四男三女あり、長男は早世し、次男恒徳が大原家を継ぎ、三男恒忠(号・拓川)が、父・観山の生家加藤家を嗣いだ。
観山は藩校「明教館」で日下伯巌などに学び、ついで江戸の「昌平黌」に学び、帰藩し明教館教授となり幕末期の松山藩の子弟教育に尽くした。
高邁な識見をもち、藩主定昭公の御用達となった。幕末には、松山藩の恭順について功があり、また、久松家の血統の絶えるのを嘆き、後嗣について大いに尽くすところがあった。明治3年1月、職を退き、三番町に私塾を開いた。子規は6歳(明治5年)の時父を失い、その後は、もっぱら母と祖父の観山にかわいがられて成長し、7歳(明治6年)の時から、三並良(母方の祖母の甥)とともに、早朝5時頃から、観山の私塾で講義を聞くようになった。観山は升(子規)を大変かわいがり、「升は、なんぼたんと教えてやっても覚えるけれ、教えてやるのが楽しみじゃ」と言っていたという。
観山は、大変西洋嫌いで、自らも一生断髪せず、髷で通したが、子規と良に対しても、小学校に入ってからも髪を結わせ、「まげ升さん」と呼ばれたりしていたので、良の父・歌原邁が観山にお願いして、観山は、不本意ながら、二人の断髪を許した。しかし、子規は観山を非常に尊敬して、「筆まかせ」の中で、「後来、学者となりて、翁の右に出でんと思へり。」と記している。
詩文集に「蕉鹿窩遺稿」がある。
松山市来迎寺の観山の墓には、山下清風(武知五友・一八一六~一八九三)のつぎの銘がある。
容止端正 学殖渊深
待人甚恕 責己最厳
其学其徳 何人不欽
「容止は端正 学殖は淵深
人を待つこと甚だ恕 己を責むること最も厳
その学その徳 なに人か欽せざらん」
「容止」は「ふるまい」、「恕」は「ゆるす」、「欽」は「うやまう」の意。
大原 其戎
[文化9(一八一二)・5・18~明治22(一八八九)・3・31 76歳]
伊予国和気郡三津浜に、父大原沢右衛門(俳号四時園其沢)、母春の長男として生まれる。通称熊太郎、後、襲名して沢右衛門。代々松山藩御船手大船頭をつとめた。家業の太物商(綿織物をあつかう店)は家人に任せて俳諧を楽しみ、父没後、四時園二世を継ぎ、万延1年(一八六〇)、三津浜の南、大可賀に芭蕉の句碑(あら株塚)を建て、その傍に草庵を結ぶとともに、全国各地からも句を求めて、記念句集『あら株集』上下二冊を刊行した。この年上洛して桜井梅室の門に入り、文久2年(一八六二)、二条家から宗匠の免許を得、帰郷後、蕉風(正風)俳諧をひろめ、松山藩家老奥平鶯居とともに、伊予俳諧の双璧といわれた。
明治13年1月、俳諧結社「明栄社」を組織して、月刊俳誌「真砂の志良辺」を発行した。これは、全国でも3番目に古いものである。其戎は、南海の僻地にありながら、他誌に先んじて月次集録に力を入れ、句は、いわゆる「旧派」に属するものであるが、素直な句風であり、折句・冠付などの技巧的な試みはない。「俳諧の連歌」、とくに「角力句合せ」に興じていたようであるが、「明栄社」発足の辞に、「蕉翁の像前にて草紙の垢を洒ぎ、月の明りに邪路の迷ひを晴らし」とあるように、真実一路、芭蕉の俳諧の心を求めていったものと考えられる。
明治20年7月下旬頃、正岡子規は、勝田主計の紹介で、柳原極堂とともに其戎を訪ね、俳諧の指導を受け、後年、「俳句を作るは、明治二十年大原其戎宗匠の許に行きしを始めとす」「余が俳諧の師は実に先生を以てはじめとす而して今に至るまで未だ他の師を得ず」と書き記している。子規初期の句が、「真砂の志良辺」の中に44句載っていて、その当時、本名の「常規」をもじって「丈鬼」と称した一青年子規が、一生の大事となっ た「俳句」の世界へ入ってゆく一つの過程をそこに見ることができる。
其戎は色白で眉秀で、頤長く鼻筋が通って、痩せ形で背高く、おだやかで世事にこだわらず、人との応接も礼儀正しく、その温容は長者の風格があったという。また、日常の生活はきわめて簡素、服装もたいてい十徳姿であったが、夏は藍地に二尺もあろうという大きな鯉を染めぬいた、その頃としては派手な浴衣を着て腰に渋うちわを差し、雪駄をチャラチャラと音たてながら人と静かに話したという。古稀賀集『おいまつ集』(明治14年)などがある。
大原 其沢
[安永2(一七七三)~嘉永1(一八四八)・10・24 75歳]
本名沢右衛門、松山藩士、御船手・大船頭を務めた。俳諧に長じ、四時園一世を名のる。四時園二世大原其戎の父。妻・春。
奥平 鶯居
[文化6(一八〇九)・3・17~明治23(一八九〇)・8・25 81歳]
本名は貞臣、通称弾正、俳号を梅滴(庵)とも号した。松山藩の家老で、藩政の首班に列した。はじめ、松山の塩見黙翁に俳諧の指導を受けたが、後、蒼?・梅室とともに天保の三大家といわれた。江戸の田川鳳朗の門に入り、その中の偉才として中央の俳檀にもその名を知られた。また、鳳朗が伊予を訪ねて来た時も、その鳳朗の俳風の発展に努めた。
明治14年6月18日、松山市湊町風詠舎は、全国でも7番目に古い俳誌「俳諧花の曙」を創刊し、鶯居はその選者となった。同誌は、初め週刊、のち月2回刊行され、通巻60号まで続いた。その創刊号に、鶯居は自ら、「我も天保・嘉永の頃、東都勤仕のいとま、鳳朗の門に入り、40余年の間この道に遊ぶといへども、素より愚昧にして、いたづらに月日を費すのみ、何一つ腹に入りたる事なし。されば、俳諧の相場を定め、口を糊する宗匠にはいまだ成らず。花とわが心くらべに立つ日かな」と述べていることからも、彼の、月並宗匠であることを潔しとしない自負のほどが偲ばれる。
奥平鶯居と大原其戎は、その当時の地方俳壇の双璧といわれ、其戎は、「俳諧花の曙」の売捌所をも引き受け、一方鶯居は、其戎の主宰する「明栄社」月並抜萃なども同誌に掲載している事から、両者の親交のほどが偲ばれる。鶯居は其戎より3歳の年長であった。
藩政時代、今の県庁のあたりに本屋敷があり、その下屋敷は雄郡神社の北(小栗五丁目6―15)の辺りにあった。
彼の俳号「梅滴庵鶯居」に因み、句集『梅鶯集』がある。
加倉井 秋を
[明治42(一九〇九)・8・26~昭和63(一九八八)・6・2 78歳]
本名昭夫、茨城県生まれ。昭和7年、東京美術学校建築家卒。以来東京にあって建築設計の仕事に従事。昭和8年より句作。同13 年富安風生に師事し、その軽みの句風を承けているが、日本的な素材を、さりげなく、しかもするどく口語的な詠法で句に仕上げるところに秋をの特異性がある。
秋をは、昭和30年から、国立愛媛療養所内の月刊俳誌「冬草」雑詠選者。昭和34年これを東京に移刊して生涯主宰した。句集に『胡桃』(昭和 23年)、『午後の窓』(昭和30年)、『真名井』(昭和44 年)、『?乃』(昭和49年)、『隠愛』(昭和54年)がある。
川田 順
[明治15(一八八二)・1・15~昭和41(一九六六)・1・22 84歳]
歌人。東京生まれ。一高より東大(英文科)へ。のち法科に転じ、卒業後、大阪の住友本社に入り、堂々勤めて常務理事となった。昭和11年に実業界を引退し、歌人としての道を歩むことになるが、昭和24年恋愛問題により一切を辞し、永住していた京都より関東に移住した。この間、歌集『伎芸天』(大正7年)、『山海経』(大正11年)ないし『川田順全歌集』(昭和27年)まで多数の著述がある。
この道後宝厳寺の川田順の長詩は、万葉集の長歌の型をなしており、川田順の最晩年の作だと考えると、順の一生は、誠に多情多感な人生であったかと思われる。
その時にふと云ひすぎし一言を
冷やかに君の忘れざるらし 順 『伎芸天』より
河東 静溪
[文政13(一八三〇)・9・1~明治27(一八九四)・4・24 63歳]
藩校「明教館」教授河東矯(龍潭)の子として生まれる。本名坤。河東家は、四、五代に亘って、漢学者の家柄であった。静溪は江戸「昌平黌」に学び、帰って、明教館教授となり、明治1年、松山藩小参事となる。廃藩後、久松家家扶を務め、明治13年、私塾「千舟学舎」を開いて、子弟の教育に当たった。
子規の五友の一人、太田正躬は、明治13年、松山中学校秋期大試験優等賞として、頼山陽編『謝選拾遺』を授与された。この書を河東静溪に学ぶこととし、子規らもこれに加わった。これが、子規が静溪に教えを受けた始めであるという。
静溪に六男三女あり、うち、三男・竹村鍛(号、黄塔)は漢詩を通じ、四男銓(号・可全)、五男・秉五郎(号・碧梧桐)は、それぞれ、俳句を通じ子規と交わるに至った。
「静溪日記」などがある。
河東 碧梧桐
[明治6(一八七三)・2・26~昭和12(一九三七)・2・1 63歳]
松山市千舟町71番地(現三番町四丁目1―7)に、父松山藩士河東坤(号・静溪)、母せい(竹村氏)の五男として生まれる。本名秉五郎。
明治20年、伊予尋常中学校に入学。高浜虚子と同級。明治22年夏と12月、東京より帰省した子規から、ベース・ボールを教わったこと(子規は東京にいる碧梧桐の兄、鍛から弟への土産としてバットとボールを預かっていたのである)がきっかけとなり、明治23年3月23日、発句集を作り、はじめて子規の添削を受ける。明治24年、伊予尋常中学校を中退、一高受験を志して上京し勉学したが、受験に失敗、明治26年、三高(京都)に入学、前年入学していた虚子と同居、翌年、学制の変革により二高(仙台)へ二人とも転学したが退学して上京し、ともに子規を頼り、俳句に携わることになる。
碧梧桐は初め、印象的、絵画的な定型句を作り、子規没後は新聞「日本」俳句欄の選者となったが、明治38年頃から、新風を求めて「新傾向」に走り、明治39年から明治44年にかけて、前後2回にわけ全国旅行を企て、ますますその傾向を強めた。大正のはじめ頃からは、五・七・五の定型や季題にとらわれずに表現する自由律の句を作っていたが、昭和8年3月、還暦祝賀会の席上で、俳壇引退を表明した。昭和11年、門人の斡旋で、東京・新宿・戸塚四丁目に、初めて自分の家を持ち、夫妻で喜び合い、
ハタキ持ち馴れて妻は肩凝るともいはなくに (新居雑感)
などの句があるが、昭和12年2月1日、腸チフスに敗血症を併発して永眠した。
旅を愛し、若くより宝生流の能に親しみ、書に長じ、囲碁に詳しく、多面・多趣味の人で、これぞと思う事には、一途に走る正直な型の人で、この走り方は、生涯変らなかった。
漢学の名門に生まれ、幼時より色白、眉目清秀でのびのびと育ち、小・中・高と虚子とともに学んだが、のち相容れず、ついに袂をわかち、近代俳句のたどるべき、険しい茨の道のさきがけとなった。子宝に恵まれず、養女にも先立たれ、物欲に恬淡で清貧に甘んじ、晩年は寂しい路をたどったことになるが、今日の自由律系の俳句の流れに、碧梧桐の俳句修業の悩みが生きていると言えよう。
『碧梧桐句集』(昭和15年・輝文館)『三千里』(明治43年・金尾文淵堂)などがある。
栗田 樗堂
[寛延2(一七四九)・8・21~文化11(一八一四)・8・21 65歳]
松山市松前町酒造業豊前屋後藤昌信の三男として生まれる。本名政範、通称貞蔵、俳号は、はじめ蘭之、のち息陰・樗堂と改めた。
同町内酒造家廉屋こと栗田家に入夫し、七代目与三左衛門専助と称し、五代目与三左衛門政恒(俳号・天山)が初代二畳庵を興したのをついで、二畳庵を再興した。
栗田家は松山きっての造り酒屋で、近年まで、その銘酒「全世界長」・「白玉」・「呉竹」の名は有名で、他店の酒より値もよかったという。敷地は約700坪、総建坪852坪、酒倉は、33間×4間の総2階建、敷地の南は樽干し場になっていた。樗堂は、家業の酒造業で大をなした外に、明和8年(一七七一)より大年寄役見習、大年寄、大年寄格となり、享和2年(一八〇二)53歳の時、病のため辞したが、その間、大年寄であること通算20数年に及んだことでも、彼の人柄と人望のほどがうかがわれる。
又一面、俳諧に親しんで、天明6年(一七八六)、当時の全国諸芸の達人を示した書『名人異類鑑』に38歳の樗堂は、早くも「俳諧上々、廉屋与三左衛門」と記されている。天明7年、京都に上り、加藤暁台に学び、近世伊予第一の俳人といわれた。樗堂の句風は、上品で美しく、おだやかでわかりやすく、しかも俗に陥らず、荘重であることは人の認めるところである。小林一茶は、その師竹阿の旅の跡をたどり、寛政7年(一七九五) と翌年と二度、樗堂の二畳庵を訪ねており、名古屋の同門の井上士朗も、親交があった。
彼は、寛政12年(一八〇〇)(庚申の年)、松山城の西、味酒の地に、「古庚申」と称する青面金剛をまつる祠の近くに、その年の「えと」と祠の名に因んで「庚申庵」を建て、風雅の生活を楽しみ、『庚申庵記』を書いた。
寛政1年(一七八九)妻・虎さき女こと羅蝶の没後、安芸(広島県)三原藩の宇都宮氏より後妻を迎えた縁で、安芸の国御手洗(大崎下島)へうつり、ここにも二畳庵を営んで、「盥江老漁」と自ら称し、没するまでの約8年間、殆ど、この地に過した。
一畳は浮世の欲や二畳庵 樗堂
「庚申庵」は戦災を免れ、県指定の史跡となっており、平成14年に保存修理された。『庚申庵記』、『樗堂俳諧集』、『萍窓集』、『石耕集』などがある。墓は松山市萱町四丁目・得法寺と呉市大崎下島・満舟寺にある。
黒田 青菱
[天保11(一八四〇)~明治29(一八九六)・4・17 56歳]
松山城下、札の辻を西へ入ったところ、紙屋町に生まれる。代々薬種商を営む豪商で、屋号は亀屋、本名弥七郎。別号・星陵・其照・函翠居・一華庵・一蓮庵・五井園とも。祖父黒田白年(一七七六―一八一四)は松山の大俳人栗田樗堂(一七四九―一八一四)の門下、その養子黒田其東(一七九八―一八七一)、その子黒田青菱、その養子黒田青江(一八七〇―一九二八)と、四代にわたる俳句の名門。松山市日の出町10 の金刀比羅神社に、明治19年(一八八六)4月中浣(中旬)との日付のある俳額があり、その最後に「追加」として、「ほそうなる田中の道やほととぎす 函翠居 黒田青菱」とある。
青陵は、また、宇都宮丹靖(一八二二―一九〇九)と俳諧結社「睡辟社」を興すなど、その頃、彼は地方俳諧の宗匠として大活躍していたことがわかる。
祖父白年が20代より俳諧を始めていたとすれば、黒田家四代の俳諧歴は、130年間にわたることになる。
斎藤 茂吉
[明治15(一八八二)・7・27~昭和28(一九五三)・2・25 70歳]
山形県南村山郡金瓶村(現上山市金瓶)生まれ。名前は、「しげよし」とも称した。別号・童馬山房主人。
生家は守谷姓。親戚の医家・斎藤純一の招きで上京、明治38年、斎藤家に入籍、一高・東大と進み、明治38年一高在学中、子規の「竹乃里歌」を読み、作歌を志したという。大正2年10月、第一歌集『赤光』刊行で一躍注目を浴び、大正6年長崎医専教授。大正10年10月文部省在外研究員として以後3年にわたり欧州に出発、ウイーン・ミュンヘンなどで研究、学位を得て帰国の途中、養父の営む脳病院全焼という悲報に接した。
彼最高の歌集と言われる『白き山』は著者の第16歌集で、その他に、歌論や随筆など、著者独特のスタイルの作品が、幅広く多岐にわたって残されている。さらに、大著『柿本人麿』全五巻があり、昭和26年11月文化勲章を受章。
酒井 黙禅
[明治16(一八八三)・3・15~昭和47(一九七二)・1・8 88歳]
福岡県八女郡水田村(現筑後市)に生まれる。本名和太郎。熊本五高より東大医学部を卒業、大正7年学位を得た翌年、東大俳句会に入って句作をはじめ、長谷川零余子、のち虚子に師事し、四年目に早くも「ホトトギス」同人に推され、課題句の選者になった。
大正9年3月、38歳で日赤松山病院長として松山に赴任して来た時、虚子は、
東風の船博士をのせて高浜へ
の句をはなむけに贈った。
黙禅は、虚子のこの句に応えるかのように、一生、本県を離れず、本務と句作に励んだ。日赤病院長を昭和23年まで29年間務め、その年より昭和25年まで、東宇和郡町立野村病院開設のために尽くし、その後松山市道後、田高の地に住むようになってからも、診療に従った。
又、虚子はじめ多くの俳人を松山へ迎え、又、俳誌「柿」(昭和21年)の初代雑詠選者、「峠」(昭和24年)の雑詠選者を創刊より没年まで、それぞれ担当した。また虚子のあとを受けて、俳諧文庫会の会長として、伊予俳諧文庫の充実を余生の仕事としていた。地元の人の句作グループまで親切に指導し、みずからも生涯句作に励み、老いてますますその句境に冴えを見せ、「愛媛新聞賞」(昭和30年)、「県教育文化賞」(昭和35年)を受けた。句碑は日赤松山病院内など県内に多数ある。
句集『後の月』(昭和18年)・『続後の月』(昭和42年)、文集に『春黄金』(昭和45年)―米寿記念文集―などがある。墓地は福岡県大川市・正覚院。
品川 柳之
[明治34(一九〇一)・10・15~昭和56(一九八一)・6・16 79歳]
本姓三好、本名柳之助、北宇和郡吉田町生まれ。幼時、東宇和郡宇和町の伯父の品川家を嗣ぐ。松山高等学校より東北帝大(法)卒業。松山中学校に勤め、富安風生に師事、「若葉」同人。のち、虚子の指導を受け、戦後、いち早く月刊俳誌「雲雀」創刊、主宰。毎日新聞愛媛俳壇選者20年、愛媛新聞に「一日一句」を長期連載し、好評であった。「右脳俳句」の提唱で知られた故品川嘉也は柳之の令息である。
篠原 梵
[明治43(一九一〇)・4・15~昭和50(一九七五)・10 ・17 65歳]
愛媛県伊予郡南伊予村(現伊予市)に、警察官である父篠原徳五郎、母ちさとの長男として生まれる。弟一人妹二人がある。大正6年、南宇和郡御荘町平城尋常高等小学校に入学、大正9年松山市立第四尋常小学校(現東雲小学校)に転入学した。父が警察官をやめ、商売(米穀、塩販売)をしたい気持が固まり、以後、松山に居着くことになる。松山中学校・松山高等学校(文科乙類)を経て、昭和9年3月31 日東京帝国大学国文学科卒業、昭和13年、中央公論社に入社、のち「中央公論」の編集長、理事、取締役を経て、「中央公論事業出版」の社長となる。昭和50 年10月、家族とともに郷里松山に帰省中肝硬変発病、僅か一週間の入院生活で松山の病院で死去した。雪枝夫人(劇作家・村田修子)も、追悼遺稿集「葉桜」(「葉桜」は梵の句碑の句に因んだもの)の編集を終えたあと、昭和51年9月5日、石手寺の梵の句碑建立も見ず死去した。
梵の俳句を育てた人の中には、松山の小学生の時の教師で俳句をよくした森直行(立石白虹堂)、松山中学の国漢教師虎尾文平(爽々)があるが、松山高等学校に入学、松高俳句会に入ってから、彼の進むべき俳句の道は決定的となった。この会は、ドイツ語の教師川本正良(臥風)と英語の教師林原耕三を指導者とした「石楠」系のものであった。同校卒、東大に進んだ昭和6年、「石楠社」に臼田亜浪を訪ね、以後、亜浪に師事することになり、「石楠」全盛期の花形として活動する。
梵の作品は、鋭い感覚、斬新な知性、しなやかなリズムなどで当時の俳壇を驚かせた。「扇風機止り醜き機械となれり」の句のような、その独特の気品と冷厳な俳句眼は氏独自のものというより外はないが、また、一面「吾子」を詠んだ一連の作、例えば、「吾子立てり夕顔ひらくときのごと揺れ」の如き描写の正確さと句に溢れる愛情の温かさは、たとえようもなく美しい。氏の句集『皿』(昭和16年)、『雨』(昭和28年)、俳号「梵」、長男の名の「土士」など、彼は左右相称の文字を好んだ。その「梵」という俳号は、松山で子供のことを「ボンや」と呼んだことに因むともいう(大喜多秀氏談)。梵は、同郷の友人にも恵まれ、特に大喜多秀(愛大―松山商大教授、哲学)とは小学校以来の学友であり、又俳句の八木絵馬(明大教授、英語)とは中学以来の学友であった。句集『年々去来の花』別冊『径路』(昭和49年)などがある。墓地は松山市祝谷 常信寺。
仙波 花叟
[明治7(一八七四)・6・27~昭和15(一九四〇)・3・25 67歳]
本名衡輔、河野村常保免(現松山市常保免)の大庄屋仙波縄の長男として生まれる。別号に魚行、椿山などがある。明治23年、伊予尋常中学校(現松山東高校)に入学、景浦直孝らと逞文学会を興し「文学の栞」を出す。
ちなみに逞文学会では、明治25年8月、帰省中の子規を講師に招き、会費10銭で夏期講習会を開催している。明治26年、松山養蚕伝習所を卒業、明治28年に河野尋常小学校の准教員となる。明治33年に退職、翌年に伊予農業銀行に入り、のち同行北条支店長となる。
句作は明治26年ころからはじめたとされ、その後、高浜虚子や内藤鳴雪の指導を受けた。明治30年1月の「ホトトギス」創刊号から上位入選を果たす。伊予農業銀行に入行後は、村上霽月から教えを受け、子規没後、村上霽月、森雷死久とともに「松風会」を再興するとともに、風早俳壇の指導者の一人として、大正4年11月、「時雨吟社」(のちの風早吟社)を創立するなど、風早俳壇の育成にも努めた。
句集『笹鳴集』、『ゆみそ』がある。
高橋 一洵
[明治32(一八九九)・4・1~昭和33(一九五八)・1・26 58歳]
本名始。教育者・俳人。松山生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業し、松山高商・松山商大に勤め、フランス語・政治学を教え、仏教の名講演は青年の心を打った。俳句の方では「一洵」と号し、自由律俳人で、俳誌「層雲」同人、山口県より本県に来た種田山頭火と親交あり、晩年の山頭火の面倒を、最後までよく見た。まことに天衣無縫の人で、現代の妙好人であった。長建寺に句碑が、千秋寺に墓と句碑がある。
高浜 虚子
[明治7(一八七四)・2・22~昭和34(一九五九)・4・8 84歳]
松山市長町新町(現湊町四丁目)に、父池内庄四郎政忠(後に信夫)、母柳(山川氏)の四男として生まれる。本名清。父は剣客で松山藩の祐筆を務めた。明治15年(9歳)、祖母の家を継ぎ高浜姓となる。智環学校などを経て明治21年伊予尋常中学に入学し、1歳年上の碧梧桐と同級となる。明治24年5月、碧梧桐より「正岡子規」の名を聞き、手紙で教えを乞い、夏、帰省した子規に初対面した。10月には子規から「虚子」という号を受けた。明治25年、三高(京都)に進み、翌年から碧梧桐も三高に学び下宿を共にする。のち、学制の変革で二人とも二高(仙台)に転校したが、そろって退学し上京。子規の激励を受け、ようやく「日本」派の新人として目せられるようになる。
明治31年、松山で柳原極堂が発行していた「ほとゝぎす」を東京に引取り、子規の協力を得て、10月、「ホトトギス」の第2巻第1号(通巻第 21号)より編集発行した。
虚子は少年の頃、俳句などよりはもっと大きなものをやってみたい気持があった。明治38年、漱石が、虚子の勧めで「吾輩は猫である」を「ホトトギス」に発表したのがきっかけで、明治40年代の「ホトトギス」は、一時、一般文芸誌的な色彩が強く、自らも主力を小説に注ぐようになったが、大正2年、碧梧桐の「新傾向」運動に反対し、俳句の伝統を固く守る立場を主張して俳壇復帰の決意を表明し、自ら「守旧派」と称して新傾向運動に対抗して挑戦した。
春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子
平明で余韻ある句を求め、客観写生を唱え、やがて「ホトトギス王国」と言われる俳壇の一大勢力を形成した彼は、昭和2年、ついに俳句を「花鳥諷詠」の詩と規定するに至った。「花鳥諷詠」とは、四季の移り変りによって起る天然現象とそれに伴う人事現象が「花鳥風月」であり、俳句はそれを「諷詠」する詩であるとした。「諷詠」とは、心に起る「詠嘆」のことである、とも言っている。このようにして、以後の虚子の俳句観は、一七字・季題という二大約束を守り、「花鳥諷詠」を「客観写生」の立場で句作することで貫かれた。「ホトトギス」経営という大企業と芸術家としての立場をうまく調和させた偉大な人・虚子のあとは長男・年尾とその娘稲畑汀子と受け継がれ、昭和55年4月号を以て、「ホトトギス」はついに一千号に達した。定本高浜虚子全集(毎日新聞社)など。昭和29年文化勲章受章。昭和12年芸術院会員。
高浜 年尾
[明治33(一九〇〇)・12・16~昭和54(一九七九)・10・26 78歳]
東京・神田の猿楽町で、父虚子、母いと(大畠姓)の長男として生まれる。本名「年尾」は子規の命名。最初「としを」を俳号とし、昭和13年以後「年尾」と改める。大正13年、小樽高商卒業後、実業界(旭シルク商会)に身を投じたが、昭和9年その職を辞して俳人の生活に戻った。もともと中学校時代から俳句には手を染めていて、一時中断していたのである。
彼は、俳句のみならず、俳諧(連句)の実作、普及にも努め、「俳諧」(昭和13年)を発行し、「俳諧の手引」(昭和21年)の著がある。これは、今日の俳句作家が、母胎の「俳諧」を知らずに過していることを残念に思ってのことである。
昭和21年4月、虚子より「ホトトギス」運営を任されていたが、昭和26年3月号から、「ホトトギス」雑詠選者となり、名実ともに同誌の主宰者となった。作風は平明で風格があり、句集に「年尾句集」(昭和32年)などがある。
昭和52年夏発病、「ホトトギス」雑詠選は、同年8月号から、年尾の娘・稲畑汀子に引き継がれた。
「ホトトギス」は、昭和55年4月号をもって、ついに一千号に達した。年尾は、その日を心から楽しみにしていたが、その前年10月26日午後6時6分永眠した。
なお、虚子は子宝に恵まれ、長男年尾のほかに、次女星野立子は、女流俳誌「玉藻」を主宰し、五女高木晴子は「ホトトギス」同人で句誌「晴居」主宰。虚子の兄の子に池内たけし(「欅」主宰)・今井つる女があり、虚子の次男・東京芸術大学作曲科教授・池内友次郎とともに、いずれも、「ホトトギス」同人で、晴子とつる女は、病身の立子の「玉藻」をよく助けた。墓は鎌倉市扇ヶ谷・寿福寺の父虚子の墓のそばにある。
種田 山頭火
[明治15(一八八二)・12 ・3~昭和15(一九四〇)・10・11 57歳]
山口県佐波郡西佐波令村第一三六番屋敷(現防府市八王寺二丁目13)の大地主の父種田竹治郎、母フサの長男として生まれる。本名正一。「山頭火」の号は、「納音」に出てくる言葉である。
早稲田大学文学部入学3年目の明治37年2月、病のため中退、父と酒造業を営む。その間、11歳の時(明治25年)、母は自宅で自殺、翌年、弟は養嗣子として他家の人となる。35歳の時、酒倉の酒が2年にわたり腐敗して破産、父は他郷へ走る。37歳の時弟が自殺し、母親がわりの祖母も死去、39歳の時、妻の実家の求めに応じ、結婚12年目の妻サキノと戸籍上離婚、40歳の時父死去。42歳の時東京で大震災に遭い、サキノの居る熊本に帰る。このように、山頭火の私生活は暗いことばかりが続いた。
その間、明治44年(30歳)頃から、地元の「青年」という雑誌に作品を発表、文章には「山頭火」、定型俳句には「田螺公」の号を用いたが、大正2年(32歳)から荻原井泉水に師事して「層雲」に句を投ずる。大正13年(43歳)、酒に酔い、熊本市電の前で仁王立ちする一件を機として市内の報恩寺に住みこみ参禅し、翌大正14年得度して仏門の人となり、当時無住であった味取観音堂(熊本県鹿本郡)の堂守となるが、その後、全国を遍歴した。果てしない旅に倦み、昭和7年、山口県小郡町矢足に其中庵を結んだこともあったが又旅の人となり、後、昭和14年10月、母「釈順貞信女」の位牌を抱いて、松山市の高橋一洵(始)、藤岡政一の二人を訪ね松山に来た。その後、四国巡拝などをして、昭和14年12月15日、一洵らの世話で、市内御幸一丁目御幸寺の黒田和尚の好意で、境内の納屋を改造してもらって入庵、のち、大山澄太が一草庵と名づける。以来、「風の夜を来て餅くれて風の夜をまた」の句のように松山の知友に温かく支えられて過ごし、死の前夜も同庵で柿の会の句会があり、山頭火はそのそばで、泥酔卒倒、高鼾であったが、翌朝午前四時(推定)死去。妻子を捨て、社会を捨て、行乞の人生を送り、自然と一体になり、自己にいつわらず、自由に一筋の道を詠いつづけた彼の姿は、死後一つのブームを呼んだ。全集11巻(昭和52、53年・春陽堂)などがある。
富安 風生
[明治18(一八八五)・4・16~昭和54(一九七九)・2・22 93歳]
愛知県八名郡金沢村(現豊川市金沢町)に、父三郎(佐久間姓)、母なか(富安姓)の四男(兄三人、姉二人の末子)として生まれる。本名謙次。母なかの父九太夫は「梅月」という俳号をもっていた。この文学好きの血が母なかより風生に伝わる。一高(安倍能成と同級)を経て、東大法科(独)を明治43年卒、直ちに逓信省に入ったが翌年喀血、保養後、大正5年、再び逓信省に入る。大正7年、福岡貯金局長となったころ、同地には俳句をよくする高崎烏城らの学友がおり、彼らの手引で吉岡禅寺洞を知り、俳句に親しむ。「風生」の号は、その頃、高崎烏城が、姓の「富安」の「富」から「富生」――「風生」ということで名付けたという。大正14年、貯金局有志の手になる「若葉」(大阪市)の課題句選者となる。この頃より虚子の指導を受け、昭和3年ホトトギス同人に推された。この年、「若葉」は発行所を東京へ移し、5月、第1号を発行し、これが今日の俳誌「若葉」の実質的創刊と見なされている。風生は、創刊号から雑詠選を担当し、これを主宰して来た。昭和54年4月号より、高齢のため、雑詠選を清崎敏郎に任せる由、昭和53年12月号誌上に発表したが、その号をまたず、昭和54年2月22日午後1時6分逝去した。
逓信省にあること27年、逓信次官を最後に昭和12年5月退官、以後は、戦後、電波監理委員会委員長をしばらく務めた外は、おおむね雑事を排し、俳諧一筋の道を歩んだ。
愛媛県との縁は、昭和7年、森薫花壇らによって、俳誌「糸瓜」が創刊された時、その雑詠選を担当したことにはじまる。以来、風生は、しばしば本県を訪ねた。
風生の句には、93年という永い人生体験に裏付けされた確かな目と心があり、老いてますます艶と香気あふれる句境を深めた。その端正な温容から生まれた句はおだやかで品があり、独特の軽やかさがあって美しい。いささかも気負わずに、おのずからなる庶民の感情に溢れている。「随順の境に達した受身の強さ、大きさ――恐るべきみごとな平凡人」と評する人もあるが、「玲瓏、玉の如き人なり」というのが彼の真骨頂であろうか。官界に、俳界に、最高の位を極めた、幸せな人と言えよう。第一句集『草の花』(昭和8年)より第15句集『齢愛し』(昭和53年)までの句集の外、多くの著作を残した。
昭和34年藍綬褒賞、昭和45年勲一等瑞宝章、昭和46年日本芸術院賞を受け、昭和49年、日本芸術院会員となった。墓は、東京都小平市・小平霊園富安家墓地。
内藤 鳴雪
[弘化4(一八四七)・4・15~大正15(一九二六)・2・20 78 歳]
江戸、三田の松山藩邸で、父房之進同人、母八十の長男として生まれる。本名素行、幼名助之進。漢詩には「南塘」の号を用いた。下村為山の従兄である。
藩校「明教館」や江戸「昌平黌」で漢学を修め、明治8年、熊本県より転任して来た土佐生まれで進歩的な権令(県知事)岩村高俊によって県学務課長を命ぜられた。翌年、師範学校を創設し、末広鉄腸の推薦で、慶応義塾卒業の草間時福を招いて、変則中学校(松山東高の前身)を創設した。明治13年、学務課長を辞して文部省へ転任したが、思うところがあって明治24年、44歳で退官し、以降は、かねてより嘱託されていた常盤会寄宿舎の監督が主務となる。翌年、子規に導かれて、45歳から本格的に俳句を始め、これが彼終生の道となる。
明治40年(60歳)、常盤会の監督を、中将で騎兵監をしていた秋山好古に譲り、俳人としての選者生活が始まる。
子規の俳人としての人生は約15年間であったが、鳴雪は45歳からの晩学で35年間もの作句生活が続いた。この35年間は子規の全生涯に相当するのである。
鳴雪は、少年時代、漢詩を子規の外祖父大原観山に学んだが、のち、俳句を観山の娘の子である子規に学んだので次の句がある。
詩は祖父に俳句は孫に春の風 鳴雪
子規から「高華」と評されているとおり、高く身を持して、しかも常に明るく、虚心坦懐、恬淡洒脱、脱俗飄逸な人柄であり、「日本」派俳句の顧問格長老として、党派を超えて敬愛せられた。
なお、「鳴雪」の号は、「世の中の事は万事成り行きにまかす」の意のもじりであり、別号「老梅居」は、「狼狽している」ことから出たもので、よく物忘れしたとも、あわて者であったともいう。痩せこけて、背が高く、あごひげを神経質にひっぱりながら、高い声で「…でやす。」「…でやした。」というのが口癖であった。
自ら、「俳句小学校の先生」をもって任じ、初学者の指導者として広く迎えられ、全国の新聞雑誌の俳句選者を委嘱されたもの30余種の多きに及び、没後、各地から送られた選評料が封を切らぬまま残されているのが見つかり、中には為替の時効を過ぎたものも多く、その清廉ぶりを物語っていた。『鳴雪俳句集』(大正15年)・『鳴雪自叙伝』(大正11年・昭和51年再刊)など。
辞世の句 ただ頼む湯婆一つの寒さかな
墓は東京都港区・青山墓地。
中村 草田男
[明治34(一九〇一)・7・24~昭和58(一九八三)・8・5 82歳]
清国福建省廈門生まれ。本名清一郎。4歳の時父の郷里・松山に帰る。松山中学校・松山高等学校より東京大学に進学。この間神経衰弱で一時休学。29 歳の時虚子に就き、東大俳句会に入会、33歳で子規を卒論に書き、卒業後、成蹊学園に就職。そして水原秋桜子の指導を受けつつ「ホトトギス」に投句、「降る雪や明治は遠くなりにけり」などの名句の載る第一句集『長子』が出版されたのは昭和14年(一九三九)のことであった。昭和44年、定年退職し成蹊大学名誉教授となる。
彼の俳風は、人生と深く関わろうとする苦闘のあとを示しているので、「人間探求派」と呼ばれた。石田波郷・加藤楸邨もこの派の俳人で、この三人のうちの二人までが愛媛の俳人であった。
松山中学校で同期生だった二神伝三郎(元松山北高校長)は、「(草田男は)平素は無愛想にみえたが、しゃべりはじめるととめどなくなる。友人は少なかったようだが、人をひきつける大きな力があり、自然とつきあいも深くなった。」と語る。松山での住居は、二番町二丁目7の日の丸駐車場の辺りであった。
また、二神氏とのゆかりで、松山北高等学校の校歌の歌詞を作った。
草田男の主宰する月刊俳誌「萬緑」の誌名は、彼の句集『火の島』(昭和14年)の中の句「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」に因んだもので、この句以来、「萬(万)緑」は新しい季語として定着した。
夏目 漱石
[慶応3(一八六七)・1・5~大正5(一九一六)・12・9・午後6時45分 50歳]
江戸牛込馬場下横町(現東京都新宿区牛込喜久井町)に、父夏目直克、母千枝の五男として生まれる。本名金之助。明治21年9月東京大学予備門本科英文学一年に進学し、翌22年1月、寄席を通じて子規と親しくなる。この年、子規は漱石のことを「畏友」と称し、以後、生涯の交友がはじまる。
明治25年8月中旬、子規を訪ねて松山に来たことのある漱石は、明治28年4月9日、今度は愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語科の教師として赴任。月給80円(校長住田昇は60円)。きどや旅館に泊り、愛松亭を経て、6月下旬頃、二番町の上野義方氏の離れに転居、自らを「愚陀佛」と号し、この下宿を「愚陀佛庵」と称した。
この年、子規は、日清戦争の従軍記者として中国に行き、帰りの御用船の中で大喀血をして、5月23日より神戸で療養後、8月、松山へ養生に帰り(5月28日付子規宛漱石書簡に「―御保養の途次一寸御帰国は出来悪く候や。小生近頃俳門に入らんと存候」とある)、漱石の仮寓に招かれた。漱石は二階へ移り、子規は一階に入り、52日間ここに滞在した。この間、地元松風会の句会が子規を指導者として愚陀佛庵で連日行なわれ、漱石も誘われて俳句に熱中するようになる。
明治29年4月9日、愛媛県尋常中学校講堂で告別式、10日、松山(三津浜)発、宇品経由で熊本へ。13日、第五高等学校講師として熊本に着任。明治33年9月8日よりイギリスに留学する。二人の交友は、子規より漱石宛ての手紙が明治34年11月6日付、漱石より子規宛ての手紙は明治4 年12月18日付のものが最後となった。
その子規から漱石宛ての最後の手紙となった「僕ハモーダメニナッテシマッタ。毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ。―(以下略)」を『吾輩は猫である』の中編序文で引用し、作品を子規に捧げている。
子規没後の明治36年1月24日帰国、一高・東大英文科講師となる。明治38年1月から「吾輩は猫である」を「ホトトギス」に発表して文名大いにあがり、明治39年4月「坊っちやん」を、9月には「草枕」を発表した。明治40年、教職を辞して朝日新聞社に入り、「虞美人草」以下の数々の名作を発表して日本文壇に偉大な業績を遺した。墓は東京都豊島区・雑司ヶ谷霊園。
西村 清臣
[文化9(一八一二)・9・22 ~明治12(一八七九)・6・9 66歳]
松山生まれ。通称弥四郎 号・雲岫・四醉亭 幼時より文武を学び、絵画・彫刻に秀で、国学に造詣が深かった。特に、和歌を好み、石井義郷を尊敬し、江戸の海野遊翁・香川景樹にも学び、歌人として地方に広く知られた。石井義郷没後は、藩中の和歌を志す者は、西村清臣の門によった。孝子吉平邸跡の十六日桜の碑やJR松山駅裏山内神社境内にも清臣の歌碑がある。著書に『西村清臣歌集』・『醉亭雑和』などがあり、妻西村つね子も歌をよくした。墓は松山市御幸一丁目・千秋寺にある。
西村 清雄
[明治4(一八七一)・2・13~昭和39(一九六四)・12・25 93歳]
松山市永木町に、父遜(中村姓)、母桃夭の長男として生まれる。祖父西村清臣は松山藩士、国学者で歌人でもあった。伯父井手正雄(号・真棹)は歌に長じ、明治18年7月、子規も教えを受けた。
明治17年、愛媛県第一中学校(松山中学校の前身)に学び、16歳の時洗礼を受け、大阪で英語を学んだ。
松山女学校(現松山東雲学園)英語科の教師コルネリヤ・ジャジソンが、勉学の機会に恵まれない勤労青少年のための夜学校を計画したのに共鳴して、松山女学校設立者で校長の二宮邦次郎と共に協力して、明治24年1月14日、普通夜学会(現松山城南高等学校の前身)を三番町に開設して、その教育に献身した。また、終戦後の困難な時に、校長として東雲学園の経営発展にも貢献し、県教育文化賞を受け、松山名誉市民に推された。
氏は祖父西村清臣の血を受けて詩歌にすぐれ、その作詞になる、讃美歌404番「送別 旅行」は、広く知られている。
野間 叟柳
[元治1(一八六四)・3・10~昭和7(一九三二)・8・18 68歳]
温泉郡柳井町28番地(後、松山市北柳井町179番地)に、松山藩士の父大作、母トヨの長男として生まれる。本名門三郎。父も「一雲」と号し、奥平鶯居門の宗匠であったので、叟柳も早くから発句に親しんだ。
中の川、法龍寺内の寺子屋式の末広学校(後、智環学校)に学び、明治7年末、3歳年下の子規と一緒に勝山学校に転校した。二人は家も近く、竹馬の友であった。
明治14年、同校卒業後、愛媛師範学校に入学し、明治17 年より教員生活に入ったが、松山高等小学校に在職中、校長中村一義(号・愛松)が俳句を好み、同校教員とともに、明治27年3月27日夜、松山市湊町一丁目伴狸伴の家で、狸伴、愛松、叟柳の三名が発起・主唱者となって句会を開いたのが「松風会」の発端である。以来、毎週一回同僚の家で句会を開くようになったが、叟柳はいつも指導者の立場にあった。
「松風会」の名は、「月並」を排し、「蕉風」に返れという精神と、「松山3 3 」に因んでつけられたものという。
叟柳は子規から「清麗」と評され、実作の上でも一日の長があり、子規が明治28年、漱石の「愚陀佛庵」に滞在中、親しく松風会の会員を指導した時にも、叟柳は、最も秀れた存在として子規の目に映ったと思われる。
叟柳はのち、松山第三(現八坂)、第一(現番町)小学校長や、各地の郡視学を歴任し、引退後、松山市学務課長となり、後、市会議員にも当選した。 この間、彼は地方俳人として終始し、「松風会」は時に盛衰があったが、常にその中心に推され、愛媛新報、海南新聞の募集句選者としても活躍するなど、地方俳壇に大きな貢献をし、長老としての尊敬を受けた。
子規の「発句経譬喩品」の中で、叟柳は、「旨シトイヘバ旨シ、ツマラヌトイヘバツマラヌ。但シ飽キテ捨テラルルコトモナシ」と評されている。さきの子規評の「清麗」の二文字とあわせて考える時、この人の真面目がうかがわれるように思う。
叟柳の娘ミヤコが嫁した永野為孝の長男為武(理学博士・東北大学名誉教授)は、「孫柳」と号して、仙台で俳誌「俳句饗宴」を主宰し、叟柳の弟恒太(弁護士)も「猿人」と号し、「ホトトギス」にその名を知られている。菩提寺は松山市柳井町三丁目・蓮福寺。
野村 喜舟
[明治19(一八八六)・5・13~昭和58(一九八三)・1・12 96歳]
父・太吉郎の次男として、金沢市に生まれる。本名喜久二。幼時、父母とともに上京。浅草鳥越町、小石川伝通院などに住み、小石川の砲兵工廠に幼年工として就職。昭和8年転任のため小倉市に住み、昭和20年退職した。
明治40年より句作し、明治42年、文芸誌「趣味」の俳壇に投句して岡本松浜(明治12~昭和14)に師事したが、松浜離京後は、句友・久保田万太郎こと「暮雨」とともに、松根東洋城の手に託され、以後、東洋城選の「国民俳壇」(国民新聞)に投句して活躍する。
大正4年、俳誌「渋柿」創刊とともに、その同人・課題句選者となる。以来、一貫して東洋城の指導を受け、小杉余子、尾崎迷堂と三羽烏として知られたが、他の二人は、後、「渋柿」と袂たもとを分った。
昭和27年2月、東洋城が、「渋柿」の選句を退くにあたり、同誌の主宰となり、昭和51年まで巻頭句(雑詠)の選を担当した。作風は、写生的傾向よりは、景情一体という体をとり、寓意性を匂わせている。
句集に「小石川」(昭和27年)、「紫川」(昭和43年)、「喜舟千句集」(昭和50年)がある。
昭和42年、勲四等に叙勲、紫綬褒章を受けた。
野村 朱燐洞
[明治26(一八九三)・11・26~大正7(一九一八)・10・31 24歳]
温泉郡素鵞村大字小坂81番戸(現松山市小坂町二ノ一)に、父徳貴、母キヌの次男として生まれる。本名守隣。三姉一兄あり、初め「柏葉」と号し、一時、「朱鱗3 洞」とも号した。
市立第三(八坂)、第一(番町)尋常小学校に学び、明治39年、松山高等小学校卒業。4月から、温泉郡郡役所給仕になり、その頃から、短歌を上司の和田汪洋に学び「柏葉」と号した。松山夜間中学校を明治40年より2か年で中退、一時、早稲田大学の通信教育(政・経)を受けたこともある。明治42年より俳句に心を傾け、明治42年5月、17歳の時、「四国文学」創刊号に、初めて「柏葉」の名で俳句が一句載る。碧梧桐とは、翌、明治43年秋、松山で相識る。明治44年3月15日から俳号を「朱燐洞」と改め、同年の4月、井泉水の「層雲」の創刊号よりこれに参加し、5月には松山で「十六夜吟社」を結成する。明治45年2月から18歳の若さで「海南新聞」俳句欄選者となり、森田雷死久に師事する。大正4年10月、「層雲」松山支部を創立、翌5年には、「層雲」選者となり、広く活躍し、「十六夜吟社」を率いて松山に自由律俳句運動を展開するなど、少壮の俳人として期待されていたが、大正7年の世界的な流感がもとで、その鬼才を惜しまれながら夭折した。その時、彼は、温泉郡郡役所書記、月俸17円であった。
彼は、「層雲」初期の抒情的・象徴的句風を代表した作家として立派な業績をのこした人であり、師・井泉水は、87歳の時、「子をなくした如く」悲しみ、「今に自分が選句しているのは後継者がないからであり、朱燐洞が生きていてくれたならばと、しきりに想うこの頃である。」と漏らしている。朱燐洞が、いかに素晴らしい天才俳人であったかがわかる。
つつましく、口数少なく、「純真で質素な生活の中にあって自分を深く生かすことを怠らず、求道者の勇猛心をもち、地を這ふ藁草のやうに鋭い神経を集めた細い肉体と、深く土に喰ひ込んで行く強い意力の根を持ってゐる」人であったとも、井泉水は、自ら編んだ彼の遺稿集「禮讃」の序で述べている。
種田山頭火が、昭和14年10月松山を訪ねて来て、ついにこの地で生を終えたのも、彼を慕って来たものであり、朱燐洞死後22年目のことであった。野村家は昭和8年絶家した。墓は松山市小坂一丁目・阿扶志墓地。
波多野 二美
[明治28(一八九五)・1・16~平成2(一九九〇)・2・13 95歳]
旧姓池田。本名貞子。大正2年(一九一三)3月松山高等女学校卒。大正6年(一九一七)波多野晋平と結婚。晋平は明治17年山口県萩市生まれ。萩中学校卒業、大阪商船に入社、別府支店を経て高浜支店(松山市)に転勤して大正14年ごろから酒井黙禅の手ほどきを受け、大正6年池田貞子と結婚した。
波多野貞子は夫君とともに俳句に親しみ、今井つる女に指導を受け、昭和24 年には、つる女の勧めで松山玉藻会を組織して、代表となり、昭和53年には「ホトトギス」同人に推される。句集に『蛍籠』(昭和58年)、『草の戸』(昭和58年)がある。社会奉仕、日赤奉仕団活動も熱心につとめ、ロシア兵墓地畔の二美の句碑も松山赤十字奉仕団の建立で、彼女の誕生日が句碑に詠まれた十六日桜ゆかりの1月16日であるのにも心打たれる。この外に平井町高棚山明星院子安観音にも「ほとゝぎす鳴く山門に着きにけり」の句碑がある。
弘田 義定
[明治37(一九〇四)・6・26~昭和62(一九八七)・6・20 82歳]
宇和島生まれ。宇和島商業学校(現宇和島東高)卒。南予時事から愛媛新聞へと新聞界につづいて身をおき、その間、大正11年、18歳のとき、宇和島で歌人中井コツフに師事してこの道に入る。それより、子規門の伊藤左千夫、長塚節、島木赤彦、特に土屋文明の庶民的叙情歌に心惹かれて、昭和26年「アララギ」に入会。翌年、「愛媛アララギ」創刊以来代表の座にあり、愛媛歌人クラブ会長、松山歌人会長を務めた。新聞人としては論説委員長、営業局長、常務取締役など歴任。昭和59年、文化庁地域文化功労賞、松山市民表彰を受けた。
前田 伍健
[明治22(一八八九)・1・5~昭和35(一九六〇)・2・11 71歳]
本名久太郎、高松生まれ、松山市へ転籍、伊予鉄道株式会社に永年勤務。川柳人として県内はおろか、全国にも広く知られている。東京の川柳作家窪田而笑子[慶応2年(一八六六)・3・15~昭和3年(一九二八)・10・27]の高弟。大正期以後、県下柳壇を隆盛に導いた。大正13年、高松で近県実業団野球大会があり、伊予鉄チームは高商クラブにゼロ敗、その仇を余興で討とうと、その晩の懇親会で伊予鉄チームに踊らせたのが、のちに全国に流行した「野球拳」。伍健は、その創始者であるが、その他に、俳画・書・随筆に、洒脱な才を示し、殊に伊予なまりを駆使した「伍健節」の話術は、NHKの「川柳角力」で、広く親しまれた。墓は松山市一番町二丁目・明楽寺。
正岡 子規
[慶応3(一八六七)・9・17(陽暦10・14)~明治35(一九〇二)・9・19 34歳]
伊予国温泉郡藤原新町(現松山市花園町3番5号)で、父隼太常尚、母八重の次男として生まれる。幼名処之助、通称升。本名常規。父は松山藩士、役目は御馬廻り加番。「加番」は「補助」又は「加勢」の意。母は、松山藩の儒学者大原観山の長女。
6歳の時、大原観山(文政1~明治8)に漢学を習ったほか、観山の死後、土屋久明、河東静溪、浦屋雲林にも漢詩文を学んだ。
明治6年より法龍寺内の末広学校(翌年、智環学校と改称)、ついで勝山学校に学び、明治13年、松山中学校入学。明治16年、退学して叔父加藤拓川を頼って上京し、須田学舎、共立学校に学んで、明治17年9月、大学予備門(第一高等学校の前身)英語課に入学、明治23年7月卒業、同年9月、文科大学(東京帝国大学の前身)哲学科入学、のち、国文学科に転科したが、明治25年7月退学を決意して、11月、母と妹を東京へ迎え、12月、日本新聞社社員となる。この間、明治22年5月9日夜、突然喀血し、翌日「子規」と号した。
少年時代から、いわゆる「五友」の如き良友に常に恵まれて、また、秋山真之(海軍中将)、勝田主計(大蔵・文部大臣)などもいた。彼等と、天性の批判精神を闘わせつつ、回覧雑誌で文才を伸ばし、常に新たなものを目指して、中学では、自由民権を大いに論じ、上京しては、ベースボールにふける子規の生活ぶりは、まことに明るく、のびのびとしていた。野球王国・松山へはじめてベースボールを持ち込んだのも子規であった。
明治17年ころより俳句に親しみ、明治20年、三津の大原其戎に俳諧の手ほどきを受け、其戎の主宰する「真砂の志良辺」に数年投句を続け、のち、自ら新境地を開き、明治24年頃から「俳句分類」にも手を着けて、その基礎を培った。
一方、小説も執筆したが、これは、やがて断念し、以後、俳句分類を続け、明治25年より新聞「日本」によって、俳句一筋の道を進む。
明治28年、日清戦争に、日本新聞社の従軍記者として戦地に赴き、帰国の船中で激しく喀血した。神戸で入院生活後、須磨保養院で療養し、その後松山に50日あまり滞在した。その間、松山の俳句結社「松風会」を帰京間際まで指導し、また「俳諧大要」を執筆し、「散策集」を残した。帰京後、カリエスに苦しみ、以来、殆んど病床にあった。その間、さらに俳句分類を続けるとともに句作に努め、明治29年頃から、彼の唱える「新俳句」が、新しい勢力として認められるに至った。
明治30年、彼の大きな支えのもと、松山で俳句雑誌「ほとゝぎす」が創刊され、ついで明治31年からは、東京版「ホトトギス」として刊行された。同年、「歌よみに与ふる書」で短歌革新にも着手し、「万葉集」を心として「写生」を重んじ、明治32年には歌人が参加して歌会が子規庵で開かれた。この子規の心は明治41年10月創刊の短歌雑誌「アララギ」に受け継がれ、今日も短歌の大きな流れをなしている。
明治34年以後は、「墨汁一滴」などの随筆が毎日のように新聞「日本」に載ることに生きがいを感じ、また、明治35年6月からは、痛み止めの麻痺剤(モルヒネ)を飲み、肱をついたままで、果物や草花を写生することを何よりの楽しみとした。
明治35年9月18日午前11時頃、寝たままで、「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」などの3句を書き遺し、翌日午前1時永眠した。
彼はわずか34年11か月の生涯に、およそ俳句二万四千句、短歌二千五百首の他、小説、漢詩、随筆、新体詩、論説、書画の他に、俳句分類に至るまで莫大な作品を残したが、分量もさることながら、進むべき道を「写生」において、俳句に短歌に、文体に古い日本の殻を破り、病苦を超えて、ひたむきに生命を燃焼させた、そのすさまじさに、子規の偉大さがあると言えるであろう。
『子規全集』(全22巻・別巻3巻)(昭和53年~・講談社)などがある。
墓は東京都北区田端・大竜寺にある。松山市末広町・正宗寺には子規居士髪塔と正岡家の墓がある。
昭和56年4月2日、松山市道後公園に松山市立子規記念博物館が開館した。
松永 鬼子坊
[明治13(一八八〇)・9・4~昭和46(一九七一)・2・5 90歳]
本名詮季、旧姓島川、温泉郡小栗村(現松山市雄郡)生まれ。明治38年に愛媛県師範学校を卒業後、磯河内の松永家の養子となった。27歳で校長となり、粟井、河野、湯築などの尋常小学校の校長を歴任、昭和8年、28年間の教職を退き、磯河内で帰農した。
明治34年、県師範学校2年のときに、村上霽月の勧めで塩崎素月らと俳句を始めた。西岡十四王、村上壺天子は県師範学校の後輩。大正4年、俳誌「渋柿」創刊とともに参加、同人となり松根東洋城に師事、また海南新聞(愛媛新聞の前身)の俳壇選者としても活躍した。
昭和7年に長男、その後、養父、次男、妻と相次ぐ肉親との死別から、仏典と俳句に光明を求め、俳諧行脚に身をまかせ、写実と情味の俳諧道を見出した。句集『形影』がある。
松根 東洋城
[明治11(一八七八)・2・25~昭和39(一九六四)・10・28 86歳]
東京、築地で、父松根権六(司法官・旧宇和島藩家老松根図書の長男)、母敏子(旧宇和島藩主伊達宗城の次女)の次男として生まれる。本名豊次郎。東京・築地の文海学校、伊予大洲小学校、松山中学、一高、東大を経て、明治38年京都帝国大学法学部(仏)卒業、その間、松中では一年下に安倍能成がいた。五年生の時、夏目漱石が英語科教師として同校に赴任、漱石とのつながりはここに始まる。
明治39年宮内省に入り、式部官、また、帝室会計審査官等を歴任、大正8年9月退官した。
一高在学中、19歳の東洋城は熊本五高の漱石に俳句の指導を受け、また、子規庵にも出入し明治33年はじめて「東洋城」と号した。
子規没後、碧梧桐が非定型の句に走ったのに対し、明治39年3月より、虚子らと「俳諧散心」と称する「定型俳句を守る会」を度々開いたりしたが、のち、東洋城は、「写生」一筋の立場にあきたらず、「子規より芭蕉へ」心が傾き、大正4年、38歳の東洋城は俳誌「渋柿」を創刊し、俳諧一筋の道を進むことになった。表紙の「渋柿」の文字は漱石の筆である。
彼は、明治41年、「国民新聞」の「国民俳壇」の選を虚子より引き継いでいたが、大正5年、「小説」から「俳壇」へ復帰した虚子が「国民俳壇」の選者も占めたため、東洋城は選を退いた。また、「感有り」と題して、「怒る事知ってあれども水温む」の句を作って「ホトトギス」とも袂を分った。
彼は伝統的品格を重んじ、幽玄、枯淡を好む、折り目正しい人であった。俳諧を究めつくした偉大な芭蕉の心を行じた人であった。いわゆる「難行道」を行じることによって自然と一体となり、自在無碍げの境地で生命をとらえる―そのような厳しさが、彼の主宰する「渋柿」には溢れていた。しかし、その半面、「黛を濃うせよ草は芳しき」の如き潤いのある象徴的な句を詠み、又歌舞伎にも精通して、「勧進帳」を観て、「みちのくを指すとは旅の余寒かな」のような新境地を拓き、注目を受けた。
昭和27年、75歳の東洋城は隠退を声明、その後を、「国民俳壇」以来の誠実な弟子野村喜舟に継いだ。昭和29年、77歳で芸術院会員となった。「小春空天冠浮び降りけり」「花蔭や芭蕉漱石寅日子も」「寅日子」は熊本五高以来の漱石の愛弟子寺田寅彦(吉村冬彦)のこと。
一生妻帯せず、独身、清貧のうちに一生を終えた。墓は宇和島市宇和津町・金剛山(大隆寺)にある。
水原 秋桜子
[明治25(一八九二)・10・9~昭和56(一九八一)・7・17 88歳]
本名豊、東京都生まれ。東京高師付小、独協中学、一高、東大(医)卒。
家は3代続いた産婦人科医師。大正15年医学博士。昭和7年、宮内省侍医。句歴は、大正8年松根東洋城に師事、「ホトトギス」にも。大正11年「東大俳句会」を復活。昭和3年「馬酔木」主宰。石田波郷・加藤楸邨らの俊秀が育った。
昭和6年10月「自然の真と文芸上の真」を発表、ついに「ホトトギス」を離脱、「主体性の確立と叙情の回復」に、現代俳句の新鮮なよみがえりを企図した。句集も数多く、第1句集『葛飾』(昭和5年)より、第20句集「蘆雁」に及び、その他に多数の随筆などをまとめた『水原秋桜子全集』全21巻(昭和54年完・講談社)がある。
「洗練された都会的感覚によって捉えられた自然が作者の情感に彩られていきくとした表情を帯びていることのすばらしさ」が、秋桜子俳句の生命と言えよう。
秋桜子と本県とのつながりは、五十崎古郷と、その門に育った波郷が、「馬酔木」門であったことにはじまる。
村上 杏史
[明治40(一九〇七)・11・4~昭和63(一九八八)・6・6 80歳]
本名清、温泉郡中島町(現松山市中島大浦)生まれ。東洋大学卒業後、朝鮮木浦(もっぽ)の京城日報で新聞記者となる。昭和5年、京城日報に着任した虚子の高弟清原枴童から俳句の指導を受け、昭和8年虚子と会い、翌9年木浦で「かりたご」主宰、戦後、愛媛ホトトギス会(酒井黙禅会長)に加わる。同30年ホトトギス同人、同36年愛媛ホトトギス会会長、同会誌「柿」主宰、組織発展に努め、会員数を二百人から千五百人へと飛躍的に増大させる。
昭和59年、松山市民文化功労賞受賞、昭和62年には愛媛俳句協会々長となり、本県の伝統的短詩型文学のリーダー役を務めた。句集に『高麗』、『玄海』、『朝鶴』など、手記『三千里』など。
村上 壺天子
[明治20(一八八七)・12・1~昭和59(一九八四)・12・26 97歳]
本名万寿男、旧姓重松、越智郡大山村字泊(現今治市吉海町)生まれ。父は重松藤太で、五人兄弟の二男。明治40年、愛媛県師範学校を卒業、明治42年に大山村余所国(現今治市宮窪町)の村上チカエの婿養子となり、村上家を継ぐことになる。教壇に立ち、明治43年に余所国で小学校校長となり、昭和13年、松山市余土尋常小学校の校長を最後に教育界を去った。
愛媛師範学校時代に、愛媛師範俳句会で村上霽月に指導を受けた。その後、松根東洋城に師事、大正10年に「渋柿」の同人となり、昭和17年から渋柿の「新樹集」選者を務めた。
また、書画をよくし、昭和46年には県立美術館で武者小路実篤、小川千甕と三人で寿老三人展を開いている。
句集『綿津見』、『別れ霧』、書画集に『壺天子・画と書』がある。
村上 霽月
[明治2(一八六九)・8・9~昭和21(一九四六)・2・15 76歳]
愛媛県伊予郡西垣生(現松山市西垣生町)に、父久太郎、母ナヲの長男として生まれる。本名半太郎。祖父の時代に産をなした素封家である。
松山中学校より、明治20年、第一高等中学校(第一高等学校の前身)に入学したが、家庭の事情で明治24年退学、父の興した今出絣株式会社社長に就任し、この年11月頃より俳句を作り始める。
明治26年より新聞「日本」に投稿をはじめ、4月、大阪で『蕪村句集』上巻を入手、子規よりも早く蕪村を知り、心酔する。明治28年9月より、松山の愚陀佛庵にいた子規との交わりが深くなり、10月7日、子規は今出の霽月邸を訪問する。明治29年3月1日には、漱石と虚子が霽月を訪ね、三人で「神仙体」と称する句を作り、東京の「めさまし草」巻三に載せる。その後、子規との交わりは、明治28年11月、上京中に根岸庵を二度訪ねただけであった。
明治30年、松山で「ほとゝぎす」発刊に当っては創刊号より投句、一時その選者も務めたが、大正4年からは東洋城の「渋柿」に参加する。
僻地に在りながら孤高独往、常に新たな句境を深めてゆくうちに、「ホトトギス」流の写生主義、花鳥諷詠だけではあきたらなくなり、大正9年9月のある日のこと、漱石の漢詩を読んでいるうち、ふと故人に再会、談笑するような感があり、なおも読み続けるうち、ふと句になって口ずさんだことがきっかけで、「転和吟」と称する、彼独自の新風をひらいた。「転和吟」とは、古今の漢詩を味読して、そのイメージを句に表現したものであるが、詩の内容と句とは不即不離の関係にあって、その間の妙味を味わうべきものである。
彼は本来経済人であって、伊予農業銀行頭取、今出産業信用組合長、県信用組合連合会長、県信用購買利用組合連合会長、愛媛銀行頭取などの要職を務め、その傍ら句作に励み、これを「業余俳諧」といっていたが、昭和20年、産業組合事業の第一線より引退した。松山市南堀端の農協会館入口に彼の胸像がある。昭和53年11月、『霽月句文集』(青葉図書)が出版されたほか、『霽月句集』3巻(昭和8年)などがある。墓地は松山市西垣生・長楽寺。
森 円月
[明治3(一八七〇)・6・15~昭和30(一九五五)・6・29 85歳]
愛媛県温泉郡余土村余戸(現松山市余戸中四丁目)に、父久次、母キクの長男として生まれる。本名次太郎。
子規の父の兄で、藩の祐筆をしていた佐伯政房(半弥)が、廃藩後、余戸の妻の実家・森源蔵の家に郷居していたが、少年子規は妹の律を連れて、よく訪れた。
「散策集」に、「鳩麦や昔通ひし叔父が家」の句がある。正しくは「伯父が家」であるが、その「伯父が家」の前の道路を隔てて東側が、子規より3歳年下の森円月の家で、円月や姉のシカは、子規とは幼なじみの遊び仲間であった。
「散策集」によれば、明治28年10月7日、松山の愚陀佛庵を人力車に乗って出かけた子規は、今出の霽月を訪ねての帰り、夕暮に、森円月の家に寄り、「柱かくしに題せよ」と言われて、
籾ほすや?遊ぶ門のうち (正岡)子規
の句をなし、さらに、席上次の一詩を作った。
?犬孤村富 松菊三逕閒(?犬 孤村富み 松菊 三逕閒かなり)
南窓倦書起 門外有青山(南窓 書に倦んで起てば 門外 青山有り)
円月は、姉婿森河北らと蛙友会を作り、地元俳句の発展に尽くした。
彼は、京都の同志社大学卒業後アメリカのエール大学に学び、明治30年から3か年、母校・松山中学校に英語科教員として勤めたこともあったが、大阪時事新聞記者となり、のち、東洋協会に入って、雑誌の編集にあたり、政界・財界・学界に交友が広く、愛蔵の書画が多かった。
森 薫花壇
[明治24(一八九一)・11・14 ~昭和51(一九七六)・3・6 84歳]
本名福次郎。伊予郡余土村西余土(現松山市余戸)生まれ。刑務官・林務課に勤め、18歳の頃より句作。はじめ河東碧梧桐、荻原井泉水の指導を受け、のち富安風生を知り、「ホトトギス」に投稿、野間叟柳のすすめで、昭和7年、月刊俳誌「糸瓜」を創刊、選者に富安風生を迎え、終生同誌を主宰し、愛媛俳句の普及向上に大きな貢献をした。昭和44年、県教育文化賞受賞。句集に『蟹目』『凌霄花』がある。『蟹目』は茶道で、茶釜の湯のにえたぎる時、はじめ丸く小さいのが沸き上がるのを「蟹目」、やや大きいのを「魚眼」というとの事。『凌霄花』は、「のうぜんかずら」の色あいが艶やかで豊かなのを、本人が大変好んでいたことによるという。
森 白象
[明治32(一八九九)・5・31~平成6年(一九九四)12・26 95歳]
本名寛紹 温泉郡重信町吉井村(現東温市牛渕)生まれ。明治43年5月、12歳のときに高野山普賢院の住職であった叔父、寛勝和尚を頼り高野山に登った。昭和47年2月、高野山第473世寺務検校執行法印、昭和55年10月、高野山真言宗管長・総本山金剛峯寺第406世座主となる。昭和56年、第1回愛媛放送賞、重信町名誉町民彰、昭和59年、愛媛県名誉県民功労彰受彰。平成6年12月26日、95歳で遷化。
大正15年3月、関西大学法文学部を卒業後、改めて高野山大学文学部密教学科に入学、昭和5年3月に卒業している。この高野山大学在学中の昭和2年、改造社の『日本文学全集』の完成を記念して高野山で開催された日本文学夏期大学で高浜虚子を知ることとなる。以降、虚子に師事し、投句を重ねた。なお、「白象」の号は12歳で入寺した普賢院の普賢菩薩が白象にのっているのに因んだもの。昭和24年、ホトトギス同人。俳人協会評議員、毎日新聞紀州俳壇選者、和歌山県年刊句集紀伊山脈会長などを歴任。句集『高野』、『仏法僧』がある。
森 盲天外
[元治1(一八六四)・8・13~昭和9(一九三四)・4・7 69歳]
伊予郡西余土村(現松山市余戸)生まれ。本名恒太郎。余土村村長・県会議員・社会運動家・俳人。明治10 年北予変則中学校(後の松山中学校)に入学、校長草間時福の教えを受けた。大正13年上京して中村敬宇の「同人社」に学び、同19年帰国、同23年より県議となる。この間、明治27年より眼に異状を感じ、上京して治療を受けたが、同29年両眼失明、深い悩みの末、一粒の米を手にして悟るところあり、比叡山で修業を積み、同31年、村民に推されて郷里の余土村村長に就任。10年間にわたり模範村の盲目村長の名を高めた。この間の記録は『一粒米』の名著となって残っている。ついで県会議員、道後湯之町町長をも務めた。
若くして正岡子規に師事、「天外」の号を受け、失明後は「盲天外」と称した。明治24年、月刊俳誌「はせを影」を発刊し、その第2号には、子規が「山路の秋」という紀行文を寄せている。この文は、講談社『子規全集』第13巻(昭和51年)に載っている。
森田 雷死久
[明治5(一八七二)・1・26~大正3(一九一四)・6・8 42歳]
愛媛県伊予郡西高柳村五番戸(現伊予郡松前町西高柳)に、父弥市郎、母キヨの次男として生まれる。本名愛五郎。兄・姉・弟・妹各一人がある。
上高柳村墨水小学校(現岡田小学校)を明治15年卒業後、温泉郡中島村大浦の長隆寺(真言宗)に入り、明治18年、伊予郡谷上山の宝珠寺に移る。明治22年京都仏教大学林に入学、明治25年同校卒業、少僧都となり宝珠寺に帰山、明治28年、その末寺・真成寺(南山崎村上唐川)の住職になったが、その後、一時、唐川小学校教員や温泉郡朝美村役場吏員をしていたこともある。明治36年、真成寺を出て、10月、温泉郡潮見村平田(現松山市平田町)の宝珠院常福寺に入る。その間、明治28 年頃から俳句を始め、明治33年「ホトトギス」にはじめて入句、12月、上京して根岸の子規庵を訪ね、蕪村忌の席につらなる。
「雷死久」の号は、彼の句「雷公の死して久しき旱かな」によるものと言われている。
明治34年には海南新聞俳壇選者となり、明治37年には、彼が中心となって松風会復興大会を開くなど地方俳壇の興隆に努めたが、明治42年頃、「新傾向」俳句の碧梧桐を知り、翌年、全国俳行脚の途中帰省した碧梧桐を迎えて荏原村大蓮寺で行なわれた俳夏行に、平田から片道18キロの道のりもいとわず参加し、「新傾向」に共鳴し、大きな影響を受けた。
一面、彼は果樹栽培にも大きな関心を示し、宝珠院寺領二反歩余りをみな梨園とし、村民にもこれを勧め、村内に園芸研究会を興し、明治42年には俳友の渡辺箕田(荏原村)と共に、小野村北梅本に梨園を経営し、「赤々園」と称した。
大正2年頃から持病の喘息が悪く、健康に恵まれなかったが、この年6月頃から「伊予果物同業組合」をつくり、彼は専務となった。彼は、「果樹王国」と言われる本県の今日を築いた先覚者ということができる。
碧梧桐は、その『新傾向句集』の中で、「驚いたような眼つきではあったが、その底黒い奥には人に親しむやさしさと何処か動かすべからざる力強さを見せていた。―我等の俳句を知ることの遅かったことを悔んだ彼はこれを知ると共に非常な努力を見せた。」と言っている。晩年「新傾向」に走った彼は、子規門最晩年の郷里の俳人の一人でもあったのである。墓は伊予市上吾川・宝珠院裏金比羅山墓地にある。
柳原 極堂
[慶応3(一八六七)・2・11~昭和32(一九五七)・10・7 90歳]
伊予国温泉郡北京町108番地に、父柳原権之助正義(松山藩大小姓格)、母トシの長男として生まれる。本名は正之、幼名は喜久間。
明治14年松山中学校入学、漢詩仲間の「同親会」や中学の弁論会の「談心会」などを通じて、一年半上級の正岡子規と相識る。明治16年、中学を中退し上京するが、明治22年共立学校(後の開成中学校)を卒業して帰松。海南新聞社に入社し、新聞人・政党人(自由党)として活躍した。
明治27年、野間叟柳らが結成した「松風会」の会員となり、指導者の下村牛伴(為山)により「碌堂」と号することになる。翌28年、子規帰郷の時は連日の如く子規の指導を受け、9月20日午後は子規と二人で石手寺へ吟行した。(『散策集』)翌29年、彼は子規から「巧緻・清新をもって勝る。」とも評された。この年の春、子規から、天下りに号を「極堂」と変えるように言われ、以後これに従った。
明治30年、子規と図って松山で月刊俳句雑誌「ほとゝぎす」を発行した。定価6銭、郵税5厘、300部刊行、やがて21号から東京の虚子に引き継がれた。
これよりさき、極堂は自由党県支部常任幹事となり、また、松山市議会議員を通算12年間務め、明治39年2月から、不偏不党厳正中立を旗じるしとする伊予日日新聞の編集長、のち社長として昭和2年まで22年間悪戦苦闘した。
昭和7年、東京で俳誌「 頭」を創刊し、昭和17年118号で廃刊。10月帰松後、極堂の提唱で「松山子規会」が結成されることになり、同会は翌18年1月19日正宗寺で発会して今日に及んでいる。
人となり無私無欲、氏の生涯のすべては、子規顕彰の一事に捧げられた。
昭和20年、戦災にあい、三津古深里の観音堂(洗心庵)の一棟に身を寄せるなど不遇な時もあり、さらに昭和27年2月5日、56年間つれ添った83歳のトラ夫人に先立たれた翁を慰めるが如くに、翌28年1月第一回愛媛新聞賞、3月に第一回愛媛県教育文化賞(県教育委員会)を受賞、4月には1年繰上げて米寿祝賀会があり、華やかな晩年となった。
昭和32年7月松山市名誉市民となり、同年10月愛媛県民賞(愛媛県)を贈られ、「秋風の何処をくゝり県民賞」(10月2日)の句が最後となった。10月1日の句に
吾が生はへちまのつるの行き処 極堂
がある。
10月7日夜8時10分永眠。法名「輝達院極堂日正居士」。同日付で勲四等端宝章を贈られる。正六位に叙せられる。
著作に句集『草雲雀』(昭和29年)、『友人子規』(昭和18年)、遺稿集『柳原極堂書翰集』(昭和42年)、『極堂俳句稿』復刻版(昭和54年)などがある。
墓は松山市山田町・妙清寺にある。
吉井 勇
[明治19(一八六一)10・8~昭和35(一九六〇)・11・19 75歳]
東京都芝区高輪南町(現港区高輪)に、伯爵家、父幸蔵、母静子の次男として生まれる。早稲田大学入学後、与謝野寛に手紙を送り「新詩社」に加盟、「明星」に短歌を発表した。また、明治40年には、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎らと九州を旅行、後に紀行文が「五足の靴」として纏められている。明治42年、森?外監修のもと「スバル」を創刊、編集を担当する一方、第1歌集『酒ほがい』を刊行。また戯曲家としても活動し、大正4年、ツルゲーネフ原作の劇「その前夜」の劇中歌として作詞した「ゴンドラの歌」が松井須磨子に歌われ、流行した。昭和4年から詩歌文芸雑誌「相聞」を主宰する。
昭和5年、宇和島運輸株式会社の招きで初めて四国路を旅し、昭和8年にも再来、昭和9年には高知県猪野野(現香美市河北町猪野野)に草庵「溪鬼荘」を結んでいる。昭和11年4月、「旅行脚」と称して、四国・中国・九州・瀬戸内海の島々を遍歴、中島をはじめ瀬戸内海の島々にもその筆跡を多く残した。
昭和12年、高知市内に居を移し、昭和13年に京都に転居、京都祇園に「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕のしたを水のながるる」の歌碑が昭和30年に建立されている。昭和35年永眠、享年75歳。
吉野 義子
[大正4(一九一五)7・13~平成22(二〇一〇)・12 ・6 95歳]
台湾台北市に、言語学者・台湾語研究者で台北帝国大学名誉教授の父小川尚義、母キクの五女として生まれる。母方の伯父吉野一知の養女となり、松山で育った。愛媛師範学校付属小学校、愛媛県立松山高等女学校を経て、昭和8年、同志社女子専門学校英文科に進学したが、昭和9年、入り婿となる吉野章と結婚、中途退学することとなる。
昭和23年、兄小川太郎の影響を受け、大野林火主催の俳句同人「濱」に入会、昭和29年、濱同人となる。昭和47年、濱同人賞を受賞。昭和54年1月1日、「星」を創刊、主宰となり、昭和57年には月刊「銀河」を創刊、通信制句会を主宰、全国の若手新人の育成に努めたが、平成15年、12月号(通算300号)をもって「星」を終刊している。
昭和62年愛媛県知事表彰、平成3年文部大臣表彰地域功労賞、平成4年愛媛県教育文化賞、平成6年松山市文化表彰、平成8年愛媛放送賞、ソロプチミスト日本財団千嘉代子賞、平成13年「俳句四季」大賞などを受賞。また、社団法人俳人協会評議員、俳人協会愛媛支部長、愛媛県俳句協会副会長、松山俳句協会副会長、国際俳句交流協会理事など歴任した。平成22年12月6日永眠。享年95歳。
句集に『くれない』『はつあらし』『舞鶴』『花真』『流水』『むらさき』などがある。