三津コース(6)

芭蕉塚(正面)

しくるゝや田のあら株のくろむほと(左)

 万延元年 願主起頭 其戎(右)

 この句は、「稲の新しい切株が雨にくたされて黒ずむまでに、この頃はしぐれが降りつづいているよ」というくらいの意味で、芭蕉が、元禄3年(一六九〇)、故郷の伊賀上野に帰る途中目にした初冬のわびしい景色を詠んだもの。この句碑は「あら株塚」と呼ばれている。「あら株」は「新株」の意。
 芭蕉を「花之本大神」と称えて深く敬った大原其戎(当時四九歳)は、万延元年(一八六〇)(芭蕉没後167年目)、大可賀(三津浜の南郊)の其戎の庵の傍にこの塚を建てた。その後、度々所をかえて現在に至っている。
 大原其戎は、この塚建立を記念して、この年の仲秋、国内一八ヵ国、五八人の俳人より句を求めて、『あら株集』上下二冊の俳諧集を刊行した。これによっても、大原其戎の名はその頃既に国内広く聞こえていたことが分かる。

花之本大神(正面)

敬へはなほもたゝしや花明り(大原)其戎(右)

 「芭蕉翁霊神は花の本とたゝへ神保じまします。玆に明栄社のぬし宗匠四時園其戎翁大可賀村に開庵しめされし時、彼の塚へ高吟をゑり付け立て給ひ、其後、弘化山(其戎居宅の裏の丘)傍へ転庵と共に移し立て給ひなむける。はた、こたび此地(旧三津魚市場の北)へうつし立てまほしきよしを宗匠に乞ひ、再度移し奉ることになむなり侍りし。なほ時世のまどひとなならぬため、言の葉の明らかなることをいさゝかしるし敬ひ侍りぬ。
  明治十有九年(一八八六)丙戌十一月十二日 明栄社々中」 (左)
 明治13年(一八八〇)発足した大原其戎の俳諧結社「明栄社」社中一同は、毎月、芭蕉の命日の12日に、社頭の「花之本大神」の碑前で遙拝して句会を開いた。
 其戎の句は、芭蕉を花明かりにこと寄せて尊んだもので、「たゝし」は「正し」で、芭蕉の正風俳諧を讃えたことば。右の長文はこの塚(「あら株塚」)が所々へ移った事を説明したもの。其戎高弟森連甫の撰文。

 なお、先の芭蕉塚も含め、恵美須神社の境内に建立されていたが、大原其戎居宅跡の碑を整備したときに、現在の位置に移された。

所在:松山市三津二丁目(県道松山東部環状線横)

三津コース(6)番