三津コース(7)

大原其戎おおはらきじゅう居宅の跡

 大原其戎の居宅は、伊予国和気郡三津栄町35番地にあった。現在、三津一丁目四番のあたりで、この石碑のある場所から75㍍ばかり北、「石崎汽船本社ビル」の裏手に位置する。その当時の家屋は残っていないが、古地図によれば、間口 三間半、奥行六間、二十一坪、「あまり手広からぬ太物(麻や木綿の織物など)屋」であったという。
 明治13年(一八八〇)1月、其戎はこの地で、俳諧結社「明栄社」をおこし、全国でも三番目に古い月刊俳誌「真砂の志良辺」を発行した。
 明治20年(一八八七)7月下旬頃、子規は、友人勝田主計の紹介で、柳原極堂とこの地に其戎を訪ね、俳諧の手ほどきを受け、子規は自ら、「余が俳諧の師は実に先生を以てはじめとす。して今に至るまで他の師を得ず。」と書いている。其戎の家のすぐ南に当時は三穂神社があり、戎社とも呼んだ。其戎の号は、それに因むか。
  初笑がほするや戎と向ひ同士  其戎

所在:松山市三津二丁目(県道松山東部環状線横)

三津コース(7)番