三津コース(9)

汽船のりば

 この「きせんのりば」の標柱は、明治4年(一八七二)頃、「はしけ」で沖の汽船までの運送を始めた久保田廻漕店が設置したもので、もともとは浜辺に臨む今の三津三丁目4付近に建てられていた。当時、その周辺はきれいな遠浅の砂浜であったという。
 三津浜港は、鎌倉時代から伊予水軍の拠点であったが、慶長8年(一六〇三)、松山城に移った加藤嘉明が水軍の拠点とし、また寛永年間には、松山藩松平初代藩主定行が、御船手組や町奉行所を置き、参勤交代の御用船の本拠としてから、物や魚の集散する松山藩の外港となった。
 明治になると、三津浜町は商工業も発展して大阪商船や宇和島運輸等の汽船の出入りする四国一の商取引所になった。窪田高平が藩政時代の番所を無償で払下げを受け、汽船廻漕をはじめた頃のことである。港は海底が浅いため、大きな汽船は沖合に停泊した。接岸できないため、船着場から沖の汽船まで「はしけ」(和船)に乗せて旅客を運ぶしか手段がなかったのである。
 なお、夏目漱石は明治28年4月9日昼すぎ、この海岸に上陸した。一七歳の少年子規も、明治16年(一八八三)6月10日、豊中丸ではじめてここから上京している。
 その後、埋立等による三津浜港の改修が進み市街化されるに伴い標柱は撤去され、三津浜港の現在地に移設された。

所在:松山市三津三丁目(防予汽船ビル前)

三津コース(9)番