三津コース(10)

十一人一人になりて秋の暮(正岡)子規

 明治28年4月、子規は新聞「日本」の記者として日清戦争に従軍し、帰国の船中で激しく喀血、神戸病院に入院し、その後須磨療養院で療養し、8月25日に養生のため帰松した。8月27日には漱石の「愚陀佛庵」に移り、10月17日までの五二日間ここに仮寓し「松風会」会員の指導を行った(「愚陀佛庵(夏目漱石の寓居)跡」参照)。明治28年10月19日に子規は上京することになるが、それに先立ち、10月12日の午後、二番町にある「花廼舎」の広間で漱石や松風会会員17名によって送別会が開かれた。17日に子規は帰京のため三津浜に向かい、久保田回漕店で送別句会を開いている。
 翌18日の午後、柳原極堂ら10名が三津浜まで見送りに来て、子規のいる客室で句作や揮毫を行った。この留別の句は、このとき詠んだもの。
 やがて夕刻になり、極堂らは晩餐の饗応を受けた。極堂の『友人子規』には、「斯くするほどに、終列車の時間が迫ったと店から注意をうけて、盡きぬ名殘を惜みつゝ我々一同は子規と袂を分った。時間は十時位であったろうか。」とあり、結局、船を見送ることなく松山に帰っている。
 その後、松山を発った子規は、宇品、須磨、大阪、奈良を巡って上京。その間、法隆寺では有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を残している。10月31日、新橋停車場にて、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪の出迎えを受けて根岸の子規庵に帰った。

所在:松山市三津三丁目(防予汽船ビル前)

三津コース(10)番