城下コース(18)

高浜虚子たかはまきょし住居跡

 虚子の生家池内家(松山藩祐筆)は子規生い立ちの家(湊町四丁目1番地)の北隣りにあったが、明治8年(一八七五)、虚子の生後間もなく北条の柳原(西の下)に郷居し、のち、明治14年、松山にり榎町に住み、翌年玉川町84番戸に居を定め、ここが虚子生い立ちの家となった。宅地は間口一二間、奥行き六間、つつじの多い庭園を加えて八〇坪ばかり、虚子の部屋は南受けの二階の五畳、日当りがよかった。
 虚子は、明治24年5月23日、ここで、碧梧桐の紹介で、東京の子規に交際を願う手紙を書き、折返し快諾の返書を得た。その夏、東京から帰省した子規らは早速ここを訪ね、句会をたびたび開いた。その頃、まだ数え年一九歳だった虚子が「月のもっとも近きものを詠め」と言われて、「名月の毛穴も見たりけふの月」と詠んで、その席にいた子規や非風、碧梧桐らが目を見はったという
のもこの家でのことである。当時は、この家が玉川町の東端で、それから東は一面の田圃であって、東の山に月が昇ると、「平野疎林瞭々として昼の如く」であった。「遠山に日の当りたる枯野かな」の名吟は、ここからの景をもに誕生した。「松山ゆかりの人びと」参照

所在:松山市一番町一丁目(駐車場)

城下コース(18)番