城下コース(6)

大原観山おおはらかんざん邸跡

 大原観山は三津御舟手加藤重孝の三男、本名有恒。姉艶枝が嫁いだ大原恒固との間に子がないため、観山が大原家の養嗣子となり、歌原家の長女重を妻に迎え、二人の間に四男三女をもうけた。その長女八重が正岡家に嫁して子規を生んだ。大原観山は子規の外祖父に当たる。観山は日下伯巌に漢学を学び、のち、江戸の昌平黌に学び舎長に補せられ、学業成って、帰藩して明教館教授となった。慷慨、気節あり、清貧に甘んじた。
 廃藩後、この地に家塾を開き、子弟を教育した。就学前の子規も、明治6年、七歳の頃、ここで漢籍の素読の講義を受けた。
 松山市五代目の市長加藤拓川(観山の三男、本名恒忠)もここで生い育った。拓川が少年時代のこと、家に古くからあった銅製の大きな手洗鉢を金貸しが年末に持ち去ったのを、苦学の末取り返したその思い出を、彼は後年切々と書き残している。「松山ゆかりの人びと」参照

所在:松山市三番町三丁目

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