城下コース(7)

愚陀佛庵ぐだぶつあん夏目漱石なつめそうせき寓居ぐうきょ)跡

 明治28年(一八九五)、松山中学校英語科教師として、月給八〇円で赴任し た漱石は、6月下旬、城山山裾の愛松亭から松山市二番町上野義方邸内の二階 建の離れに移った。一階も二階も四畳半と六畳であった。日清戦争に記者として従軍の帰路喀血した子規は、神戸で療養のあと松山に帰り、8月27日、漱石の下宿へ移り、階下の二間を居室と定め、漱石は二階に移った。10月17日までの五二日間、子規はここに起居して、「俳諧大要」を書き、当地の「日本」派俳句結社「松風会」会員約三〇名を日夜指導した。
 また、漱石も自らを「愚陀佛」と称し、この宿を「愚陀佛庵」として俳句に 熱中した。
  愚陀佛は主人の名なり冬籠   (夏目)漱石
   漱石寓居の一間を借りて
  桔梗活けてしばらく仮の書斎哉   (正岡)子規
 この建物は、惜しくも戦災で焼け失せたが、子規記念博物館常設展示室三階にその一階の部分が復元され、また、昭和57年萬翠荘敷地内(松山市一番町三丁目)にも復元された。(ただし、平成22年に災害のため倒壊、今はない。)
 なお、愚陀佛庵滞在中、子規が試みた吟行の記録は、「散策集」として残されている。

所在:松山市二番町三丁目(愚陀佛庵駐車場前)

城下コース(7)番