城下コース(5)

河東碧梧桐かわひがしへきごとう誕生地(静渓(せいけい)邸の跡)

 河東碧梧桐(本名・秉五郎)は、明治6年(一八七三)2月26日、父静溪の五男として、ここに生まれた。昔の侍屋敷で300坪ばかりもあり、一二畳の座敷から三畳の玄関まで一〇室くらい、横長く続き、その南側には大きな池があった。
 静溪は藩校「明教館」の教授を拝命したほどの人柄で、廃藩後、明治13年にはここに「千舟学舎」を開いて、早朝から素読生が多く通った。子規ら、いわゆる「五友」(「浦屋雲林邸跡」参照)たちも、八畳と六畳の二室で講義を受けた。また、五友たちは、明治13年から、漢詩を作る会「同親会」を結成し、毎週月曜と金曜に各人の家で詩会を開き、静溪らの指導を受けた。
 明治22年12月30日、子規は、ここの門前に当時一七歳の碧梧桐をつれ出して、素手で、キャッチ・ボールの要領を教えた。これが、子規と碧梧桐の交わりの発端であり、虚子もまた、翌年、碧梧桐にならって子規に近づいた。
 この地は、松山の、いや愛媛の野球発祥の地とも言えようか。「松山ゆかりの人びと」参照

所在:松山市三番町四丁目

城下コース(5)番