城下コース(22)
俳誌「ほとゝぎす」創刊の地
「子規」に因んで名付けられた俳誌「ほとゝぎす」は、柳原極堂によって、明治30年(一八九七)1月15日、立花町50番戸で創刊された。極堂は、発行に先立ち、明治29年の冬、子規に許しを得るため上京している。
創刊号は、海南新聞(現愛媛新聞)の印刷部で印刷され、用紙は新聞社のザラ紙を分けてもらったという。発行部数は300部、1冊6銭だった。
一地方俳誌として創刊されたが、号を追うごとに全国で注目を集めるようになり、子規にとっても「余はほとゝぎすと終始せんと欲する者なり」、「ほとゝぎすは余の生命なり」と言うほど、大きな意味を持つ俳誌に成長する。
翌年、子規からの依頼もあり、松山での発行は明治31年8月31日の第20号をもって終了、以降、発行所を東京に移し、高浜虚子がこれを引き継いだ。
ちなみに、誌名は当初「ほとゝぎす」とひらがなで、東京に移った後もそのまま用いられていたが、明治35年10月25日発行の第六巻第一号からカタカナ表記の「ホトトギス」に名を変え、今日まで引き継がれている。
なお、「創刊の地」の石碑の側面には、次の句が刻まれている。
祝「ほとゝぎす」発刊
新年や鶯鳴いてほとゝぎす
この句は「ほとゝぎす」創刊号に載せられたもので、前書きにあるとおり俳誌の創刊を新年に鳴く鶯に喩えて詠んだものである。
所在:松山市北立花町(中の川筋沿い)
城下コース(22)番