城下コース(25)

浦屋雲林うらやうんりん 邸跡

 浦屋雲林(本名・寛制)は松山藩に仕え、小姓役から祐筆に進んだが、維新後はこの地に私塾「桃源黌」を開いて子弟の教育に当った。子規は「五友」とともに一四、一五歳の頃から明治29年頃まで漢詩の作品をみてもらっている。子規より二七歳の年長であった。
 明治28年(一八九五)10月2日、子規は一人で散歩に出て石手川堤より雲林先生村居の前を通り、「花木槿雲林先生恙なきや」の句を「散策集」に遺した。
 子規の句に、「庭清水藤原村の七番戸」(実際は六番戸、現柳井町二丁目10)というのがあり、その句の前書きに、「浦屋先生の家に冷泉あり」とあるように、700坪という広い屋敷のお庭には約210坪の大きな池があり、きれいな、冷たい清水が湧き出ていたという。後に、料亭となったが、今は、その泉などの跡を留めていない。
 「五友」は子規と三並良、太田正躬、森知之、竹村鍛の五人。着流しに兵児帯を巻き、下駄を引っ掛けて、これらの友人と桃源黌に出入りしていた子規少年らの姿が偲ばれる。「松山ゆかりの人びと」参照

所在:松山市柳井町二丁目

城下コース(25)番