城下コース(30)

南山寿

こゝろざし富貴ふうき にあらずおい の春(柳原)極堂

 柳原極堂は本名正之。子規と同年生まれ。俳誌「ほとゝぎす」を明治30年(一八九七)松山に創刊、その流れは今日に及んでいる。自分の余生を子規顕彰に捧げ、自分の句碑をすすんで建立することはなかった。昭和27年2月、五六年間つれ添った八三歳のトラ夫人に先立たれたが、翌28年1月、第一回愛媛文化賞(愛媛新聞社)、3月には第一回教育文化賞(愛媛県)4月には米寿祝賀会が道後公会堂(今の子規記念博物館のところにあった)であり、会する者三百人、華やかな晩年となった。句は、その年の作である。
 碑面の「南山寿」(なんざんのじゅ)とは、中国の最古の詩集の「詩経」にある語で、中国の終南山(陜西省にある海抜約三千㍍の山)がいつまでも崩れないように、事業が永遠である意から、人の長寿を祝う言葉。
 碑陰に、「昭和59年9月吉日極堂会これを建つ。」とある。極堂逝去二七年後の建立である。

所在:松山市末広町(興聖寺)

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