城下コース(31)

末二月四日 子葉末期

梅てのむ茶屋も有へし死出の山(大高)子葉

 吉良邸を襲撃して本懐を遂げた赤穂義士47名のうち、大石主税以下10名は江戸の松山藩邸に預けられ、翌元禄16年(一七〇三)2月4日同邸にて切腹した。そのうち、大高源五(三二歳)と木村岡右衛門(四六歳)の介錯を、徒目付けの宮原久太夫頼安が行なった。(一説には源五の介錯は加藤斧右衛門)また、久太夫はこの両名とは特に親く、その縁で、同家の菩提寺の興聖寺に墓を設け、厚く弔ったという。大高源五は、宝井其角の弟子で俳諧をよくし、「子葉」と号した。この句は彼の辞世の句である。「未」は「ひつじ」で元禄16年のこと。筆跡は、其角の『類柑子』(一七〇七刊)の文字による。
 大高源五は、吉良邸への討ち入りに際して吉良家出入りの茶人山田宗偏に近づき、12月14日に吉良邸で茶会があることを突きとめた第一の功労者であった。また、歌舞伎『松浦の太鼓』には、雪の師走に其角と出会った折、「年の瀬や水の流れと人の身は」という其角からの発句の投げかけに、源吾が「明日待たるゝその宝船」という付け句を返し、暗に討入り決行を伝えたという有名な場面がある。
 昭和40年4月25日建立。

所在:松山市末広町(興聖寺)

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