城下コース(32)

正岡氏累代墓

 累代の墓であるとともに、子規両親の墓でもある。
 戒名の月光院常堅慧照居士は父常尚(隼太)で、明治5年(一八七二)3月7日死去(四〇歳)、研光院月窓慧雲大姉が常尚の先妻(倉根姓)で、安政6年(一八五九)5月14日死去(二〇歳)。この墓はもともと法龍寺(「正岡家墓地跡/粟の穂のこゝを叩くなこの墓を」参照。)にあった。
 昭和2年(一九二七)5月12日、東京で子規の母堂正岡八重が死去(八三歳)、松山にも分骨することとなった。この際、幼時より子規と親交あり、かねてより子規の墓碑建立を熱望していた正宗寺の住職釈仏海師が正宗寺への納骨を希望し、これを実現させるため正岡家の了承を得て法龍寺から正宗寺の子規髪塔の南側に累代の墓を移転し、分骨を納めたのである。
 この墓の隣には、「寒山落木」巻四(明治28年秋)の句
  名月や寺の二階の瓦頭口
を刻んだ句碑がある。子規没後一〇〇年を記念して、松山子規会により平成13年9月19日建立された。

所在:松山市末広町(正宗寺)

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