城下コース(36)

朝寒やたのもとひゞく内玄関(正岡)子規

 明治28年(一八九五)10月7日の「散策集」には、「―今日七日は天気快晴、心地ひろくすがすがしければ俄かに思ひ立ちて、(愚陀佛庵より)人車(人力車)をやとひ今出(村上霽月邸)へと出で立つ。道に(途中)一宿を正宗寺に訪ふ。同伴を欲する也。一宿故ありて行かず。」と前書きしてこの句がある。
 正宗寺住職釈仏海師は子規の俳友で「一宿」と号し、庫裡の二階で松風会の句会も度々開かれた。この寺は禅寺だから、訪ねた時は「たのもうー」と言うのが僧の礼儀であったが、子規は、本当にそう言ったかどうか。「朝寒」は、秋になって朝々冷気を感ずることで、「秋」の季語である。「散策集」から文字を採った子規の句碑はこの碑だけである。「散策集」の原本は、惜しくも、戦災で焼失してしまった。この碑は、昭和9、10年頃建立し戦災で壊れたので、拓本により再建したもの。
 一宿は明治1年12月25日松山に生まれて子規より一歳年下、昭和20年11月24日京都妙心寺内竜泉庵住職として没した。七六歳、本名、山本良孝。子規の死の前日、明治35年9月18日、虫が知らせたのか、「倒れんと案山子の動く嵐かな」の句を添えて見舞いのハガキを送った。これが子規生前の子規宛書簡の最後のものとなった。

所在:松山市末広町(正宗寺)

城下コース(36)番