城下コース(37)

正岡家墓地跡

 現在、正宗寺にある正岡家累代の墓は、昭和2年まで、この法龍寺にあった。昭和2年5月12日、母・八重が八三歳で死去。八重の分骨を納める際、墓が法龍寺から正宗寺の子規髪塔の南側に移された。(「正岡氏累代墓」参照。)
 新聞「日本」の記者として日清戦争従軍のため帰省した子規が、明治28年(一八九五)3月15日、三年ぶりに法龍寺の父の墓に詣でてみると、平井までの伊予鉄のレールが寺域内を横切っていて(明治26年5月7日開通)、菜の花が墓のほとりに乱れ咲いているのが「心にこたへ、胸ふたがりてしばし立ちも上らず。畑打よここらあたりは打ち残せ」と「陣中日記」に書き記している。後、帰国の船中で喀血、大患養生後の9月、松山に帰り、「法龍寺に至り、家君の墓を尋ぬれば、今は畑中の墓地とかはりはてたるにそゞろ涙の催されて」と前書きして

粟の穂のこゝを叩くなこの墓を(正岡)子規

と詠んでいる。また、この寺に設けられた寺子屋式の小学校「末広学校」(後、智環学校と改称)に、明治6年の秋ごろ、子規は三並良はじめ(子規の又従兄弟)らと通った。全校生徒103名、教官2名。
 子規と三並の二人だけは、子規の母方の祖父大原観山の方針で、髷ま げを結ったまま通っていたが、それを二人は大変嫌がった。

所在:松山市柳井町三丁目(法龍寺)

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