城下コース(40)

正岡子規まさおかしき誕生地

 慶応3年(一八六七)9月17日(陽暦10月14日)晴 午前9時頃、伊予国温泉郡藤原新町(後松山市新玉町一丁目8番9番地、現花園町3番5号)に出生。幼名処之助、四、五歳の頃、「升」と改める。はじめは「ところさん」のち「のぼさん」と呼ばれ、近親者は、最期まで「のぼさん」と呼び続けた。母八重は子規のことを、「赤ン坊の時はそりゃ丸い顔てて、丸い顔てて、よっぽど見苦しい顔でございました。鼻が低い低い妙な顔で、ようまァ此頃のやうに高くなったものぢゃと思ひます。」と話している。又、泣き虫で、よく夜泣きをしたともいう。父隼太常尚は松山藩士、御馬廻加番(「加番」は補助の意という)、元、九石三人扶持の大小姓。妹の律の話では、禄高五〇俵。大酒家。表はオロ垣(竹の枯枝)を結び、垣の内には、珊瑚樹の植え木が並んでいたという。翌年、湊町新町に転居した。
 この生家の向かいが学友清水則遠の家で、彼は東京の下宿で子規と同居中脚気衝心のため亡くなった。子規は行き届いた処置をして、その模様を生家へ切々たる手紙で報告している。(「正岡子規生い立ちの家跡/くれなゐの梅散るなへに故郷に つくしつみにし春し思ほゆ」参照。)

所在:松山市花園町(電車通西側)

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