城下コース(3)

松風会ゆかりの松山市立高等小学校跡(通称「松山高等小学校」)

 全国にさきがけて、子規直系の「日本」派俳句結社「松風会」が松山に発足したのは、明治27年3月27日のことであった。会員は、はじめのうちは、松山市立高等小学校校長中村一義(号、愛松)、教員野間門三郎(号、叟柳)ら、同校の教員だけであって、ここが、その高等小学校の跡である。「松風会」の「松」は「松山」にちなみ、また、「芭蕉」の「蕉」にも同音でかよわせたもの。
 翌、明治28年夏から秋にかけて、病身の子規が漱石の下宿「愚陀佛庵」に仮寓中、これら松風会会員は連日のようにここを訪ねて教えを受け、子規も熱心に指導したが、いつの間にか、夏目漱石もその席に座りこむようになったという。柳原極堂(当時は碌堂と号し、海南新聞社員)らも松風会に加わり、愚陀佛庵に日参した。
 子規は、この番町小学校の前身、勝山学校の卒業生で、当時の勝山学校は二番町の北側西詰、西日本電信電話四国事業本部愛媛支店敷地内にあったが、明治19年8月、現在位置に移転した。その後、明治33年3月28日より昭和8年8月29日までの間は、現在の市庁舎の位置に移転していたこともある。この間、校名も勝山学校から外側尋常小学校、第一尋常小学校、番町尋常小学校などと変わった。

所在:松山市二番町四丁目(番町小学校 校門右手)

城下コース(3)番