道後コース(8)
狂平の仮名詩碑(臥牛洞)狂平
我師この世にいます比しもは
ひとへに其師の道をになひて
雪に氷に身をこらしつゝ
夏野は脚を草にこがして
道には秋の露いとはずも
門は葎のとぢも閉てん
荻には風の音の有しを
二見の浦の貝の数々
人をめぐみの深ければこそ
世の捨人のなみにあらずも
この日のもとの国のすゑすゑ
蝦夷か千嶋もそとのはま辺も
春のながめの心のとけく
岩のはさまも住うからねば
咲ちる事も風にまかして
心の花は常に咲しを
はるの嵐のさはつれなくて
寝屋にやどせる月も荒しよ
そよ村雲のたちかくしにし
其きさらぎの宵の間の夢
覚にし魂をこゝにうつして
今も花咲かげぞ尊ふとき
「維石不言 (これ石言はず)
謎文以伝 (なぞぶみもって伝ふ)
蕉下獅子菴門人 臥牛洞狂平
宝暦五乙亥稔二月七日」
「蕉下獅子菴」は芭蕉の門人各務支考のこと。臥牛洞狂平はその門人。風早地方俳壇の指導者と思われるが、詳しいことは分からない。支考の二五回忌に当たる宝暦5年(一七五五)2月に狂平が建てた碑である。〈支考は享保16年(一七三一)2月7日六七歳で没した。〉新体詩の前身とも言うべき、この種の仮名詩碑は、宝永7年(一七一〇)支考が京都東山双林寺に建てた芭蕉碑と、寛政2年(一七九〇)支考六〇回忌に紀州藩風悟が同寺に芭蕉碑に模して建てた支考碑があるだけである。碑の裏側の「維石・・・」の八文字は、京都の仮名詩を模したものだが、「謎文」の意味はわからない。
臥牛洞狂平編の俳諧撰集『きさらき』(各務支考の追悼集)によれば、狂平らは、宝暦13年(一七六三)にも支考三三回忌の追善法要をこの寺で営んでおり、その時は、江戸の二六庵竹阿(小林一茶の師)も来遊していて、狂平のこの挙を讃えて、一文を草し、「桜は碑に名高く、碑はさくらに名高し」と前書きして、「此道のひとへにしたれ桜かな 行脚僧竹阿」と、句を残している。また、『きさらき』のはじめには、枝垂桜の下にこの碑を画いて、「右碑、予松城東温泉上、円満寺本堂前糸桜下ニアリ」とある。
有名な糸桜は枯れ、碑も庭内の池のほとりに半ば埋れていたが、碑だけは、昭和26年、住職の手で掘り出された。
寛政7年(一七九五)一茶来遊の時は、師竹阿の足跡を訪ねているから、一茶はこの碑にも足を運んだことであろう。
所在:松山市道後湯月町(円満寺)
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