道後コース(10)

旅衣木のねかやのねいつくにか
  身のすてられぬところあるへき一遍

 一遍は、一生に七〇余首の和歌を残した。晩年の正応2年(一二八九)、淡路島で病を押して巡行の時に詠んだ一首。その年、神戸に渡り、そこで没した。平成元年(一九八九)が生誕七五〇年、没後七百年に当たるのを記念して、平成2年(一九九〇)3月15日一遍会と地元有志が建立したもの。一首の意味は、「どこにだってこの身はすてられるものだ」と主張しており、念仏を勧めて周る旅の苦しみなどものの数ではないと言っているのである。碑の文字は、一遍の異母弟聖戒(二三歳ばかり年少)の描いた『一遍聖絵』(国宝)の文字による。上人は宝厳寺で生まれ、当寺に国指定の重要文化財「木像一遍上人立像」(室町時代)が安置されている。

川田順の詩碑

夕陽無限好
糞掃衣すその短く くるふしも臑もあらはに
わらんちも穿かぬ素足は 國々の道の長手の
土をふみ石をふみ来て にしみたる血さえ見ゆかに
いたましく頬こけおちて おとかひもしゃくれ尖るを
眉は長く目見の静けく たぐひなき敬虔をもて
合せたる掌のさきよりは 光さへ放つと見ゆれ
伊予の国伊佐庭の山の み湯に来て為すこともなく
日をかさね吾は遊ぶを この郷に生れながらも
このみ湯に浸るひまなく 西へ行き東に行きて
念佛もて勧化したまふ みすがたをここに残せる

 

一遍上人
  於豫州寶厳寺

川田 順

 

 この詩は、七五調を繰り返し、おしまいを五七七で終える、万葉集の長歌の形式をとっている。歌の中の「糞掃衣」(ふんぞうえ)とは僧の衣のことで、インドの教団で、糞や塵のように掃き捨てられたぼろ衣を洗い、綴って作ったことからこの言葉がある。
 川田順(一八八二―一九六六 明治15年―昭和41年)は東京生まれ。一高・東大を経て大阪の住友本社に入り、常務理事となったが昭和11年実業界を引き、明治30年より親しんで来た歌の道に専念した。昭和24年、恋愛問題によって一切を辞し、永く住んだ京都を去り、関東に移住した。その後、川田順は、昭和34年、宝厳寺の一遍上人像を拝して住職宛の礼状が届いている。その書簡が昭和34年7月24日付となっているから、この長詩もその頃の作であろう。

所在:松山市道後湯月町(宝厳寺)

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