道後コース(12)

伊狹庭いさにわの湯はしもさはに梅咲けり(加倉井)秋を

 道後の伊佐爾波神社の石段を登りきった右側にこの句碑がある。文字どおり、この地にふさわしい。
 句中の「伊狹庭の湯はしも・・・・・・」の語句は、万葉集巻三の山部赤人作の「伊予の温泉に至りて作る歌一首」の語句を大胆に取り込んでいる。その歌は
 「皇神祖の神の命みことの 敷きいます国のことごと 湯はしもさはにあれども 島山のよろしき国と こごしかも伊予の高嶺の 射狭庭の岡に立たして(以下略)・・・・・・」(322番歌)

という長歌である。実際に山部赤人が当地に来遊したのは天平8年(七三六)の頃かと言われている。(土屋文明氏の『万葉集年表』)
 昭和29年10月、温泉郡重信町(現東温市)の国立愛媛療養所内で俳誌「冬草」が創刊され、富安風生や加倉井秋をの指導で発展、昭和34年、秋をがこれを東京へ移して、全国誌として生涯これを主宰して来た。この句は昭和51年春、秋をが松山に来た時の句。句碑は、昭和61年10月10日、秋をの喜寿を祝って「冬草」同人、「冬草」同人愛媛支部(竹内武城支部長)らが建立。除幕式には病気の秋をに代わって、二女小松原美代子夫妻が来松した。

所在:松山市桜谷町(伊佐爾波神社石段最上段右)

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