道後コース(23)

熟田津爾船乘世武登月待者にきたつにふなのりせむとつきまてば
   潮毛可奈比沼今者許藝乞菜しおもかなひぬいまはこぎいでな

                                       額田王ぬかたのおおきみ

 『万葉集』中の秀歌、巻一・八番、額田王の歌。歌碑は昭和42年11月23日、「熟田津の歌を讃える会」が建立した。県民の募金や、万葉研究家、郷土史家、教育者などの熱意が結集した歌碑である。碑石は、石鎚山系の青石で純白の石英が潮のように走る。中央の庵治石に、元暦校本による万葉仮名の本歌を手彫りする、国内最高の万葉歌碑である。 訓よみや解説等は副碑として後世の研究を待つ。建立者たちの深い敬意と謙虚さが十分にうかがえる歌碑である。
 唐、新羅軍に滅ぼされた百済国再興のために、六六一年(斉明天皇7年)救援軍は難波を出港、1月14日に伊予の熟田津の石湯の行宮に停泊。伊予の軍事拠点久米氏らの協力で軍備、水軍力の確保強化を終え熟田津から九州の那大津(博多)に向けて軍船団が出港する神事のときの歌である。救援軍の勝利を予祝した、朗々とした額田王の声が海上に響き渡る。「熟田津で船に乗り込もうと月を待っていると月ばかりでなく潮の流れも叶った。さあ、今こそ漕ぎ出そうぞ」。「叶う」とは、神意によって願いが実現する最高の状態をいう。ここで「叶う」とは、真夜中の南天に輝く満月、九州方面に向かって流れ始める引き潮をいう。副碑の「潮は満ち」の訳では船は逆に難波に向かってしまう。また、3月25日に那大津泊(『日本書紀』)とあり、旅程を考えると、出港は3月15日の満月前後の真夜中と考えられる。斉明御製歌説があるが、『伊予国風土記』逸文に御製歌「美枳多頭尓波弖丁美礼婆云々」があり、御製歌は別の歌だったようだ。

所在:松山市御幸一丁目(護国神社万葉苑上)

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