道後コース(24)

一草庵(種田山頭火終の住処)

 昭和14年9月27日未明、広島から海路松山に上陸した。尻からげの着物に地下足袋、母の位牌を入れた風呂敷包みを背負い、さんや袋を首から吊るし、腰にタオル一枚の姿であった。念願の野村朱燐洞の墓参を済ませた山頭火は、10月6日、四国遍路に旅立つ。
 この間、松山に安住の地を求める山頭火に、大山澄太の知人、高橋一洵、藤岡政一らの奔走により、望みどおりの草庵が見つかった。のちに大山澄太の提案で「一草庵」と名付けられている。山頭火は、これに手を入れて、昭和14年12月15日から昭和15年10月11日に脳溢血(診断は心臓麻痺)のため永眠するまで住んだ。享年五九歳。「松山ゆかりの人びと」参照
 この一草庵は、山頭火の没後も何人かの人が住んだが、老朽化のため昭和27年(一九五二)、当時の愛媛県知事久松定武を会長とする「山頭火顕彰会」が浄財を集めて新たに庵を新築、10月11日に落成式と山頭火の13回忌法要が行われている。昭和55年(一九八〇)には、一草庵が「山頭火顕彰会」から松山市に寄贈され、以来、松山市の管理するところとなった。
 平成19年10月から隣接する用地を取得して休息所等の便益施設を建設、平成21年3月に完成、工事にあわせ「一草庵」の改修も行い、昭和27年の再建時の姿が蘇った。また、敷地内には山頭火の4つの句碑が建立されている。

鐡鉢てっぱつの中へもあられ

 この句は昭和7年1月8日、福岡県芦屋町での吟。「今日はだいぶ寒かった。一昨六日が小寒の入、寒くなければ嘘だが、雪と波しぶきとをまともにうけて歩くのは行脚らしすぎる。」と記して、この句がある。

春風の鉢の子一つ

 前の句碑とともに、山頭火自筆。昭和8年5月13日、山口県室積行乞の記事の前にこの句があり、「秋風の鉄鉢を持つ」と対になっている。

にごれる水のなかれつゝ澄む

 この句は、死去の約一か月前の句で、一草庵の前を流れる大川(樋又川)に人生を観じたもの。

一洵君に

おちついて死ねさうな草枯るる

 この句は、高橋一洵が奔走して見つけたこの草庵に入った山頭火が、「私には分に過ぎたる栖家である」と記し、その苦労に感謝して一洵に呈したもの。

所在:松山市御幸一丁目(一草庵)

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